◇国中のあらゆる地域から多くの人々がエルサレムを目指して、行進して来ている。この人々の思いはどうだっただろうか。この方こそ、自分たちの国を再興してくださる、新しい王かもしれない、そういう期待を抱いて多くの人がイエス様について来た。都エルサレムは熱狂に包まれていた。しかし熱狂はすぐに冷めてしまう。
◇受難週に私たちに投げかけられる、もう一つの問いがある。あなたにとって、イエス様の十字架は何だったのか、という問である。人間はそのままでは神様に顔向けできない。神様を愛することも、他者を愛することもできない。あなたの持ち物は、たとえ歯ブラシ1本でもあなたが造ったわけではない。神様が造られたものである。神様が、借りている物をすぐに返しなさい、と言われたら、誰も返すことができない。恵みを忘れて生きているのが私たちである。
◇イスラエルの人々は、神殿で動物犠牲を捧げることで、自分たちの罪を清めようとした。しかしこれは、繰り返し捧げなければならないし、罪を消す力のない祭儀である。消えない罪を、イエス様は祭司としてご自身を捧げることで解消してくださった。この尊い犠牲によって、私たちは罪ある者でありながら、神様に、あなたの罪はもはや追求しないことにする、と言っていただけるのである。
◇人間は皆、死ぬ存在である。死にとらわれている私たちを、イエス様は、自ら死の懐に飛び込むことで、死を打ち破ってくださった。私たちを死から解放してくださるという、イエス様以外の誰にもできないことを成し遂げてくださったのである。
◇人間は皆、そのままでは正しくあることができない。私たちの社会も、ゆがんでいて、どうしようもない。そこで創造主なる神様は、御子をこの地上にお遣わしになった。イエス様はご自身の使命に忠実だったため、自ら十字架へと歩まれる。人間は皆、救われなければならない。皆、こぞって「救ってください。(ホサナの原義)」と叫ぶべき時である。愛に満ち満ちた神様が救ってくださらないはずがない。
