2007/2/25 礼拝説教
「食卓への招き」牧師 大村 栄
ルカ福音書9:10−17
◇「五つのパンと二匹の魚」によって男だけで5000人の「すべての人が食べて満腹」した。追いすがってきた「群衆」を、主は「50人ぐらいずつ組にして」座らせた。秩序正しく座った民は、もはやそれまでの、御利益を追求していた烏合の衆ではない。教会の秩序に則して主の前にひざまづき、礼拝を捧げる神の民となっている。聖餐を未受洗者にも配る、いわゆるフリー聖餐を主張する人々は、この「5000人の給食」の記事をその根拠とする。全員に配られているのに教会が受洗者と未受洗者の区別をするのは不当だと言う。確かに食卓への招きはすべての者に向けられる。だがその招きに応えて教会の秩序の中に身を置き、主のみ前にひざまずく礼拝者に変えられた民に対して食事が配られたのだ。
◇「洗礼」がその秩序である。「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマ(洗礼)を領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白式を了した者をいう」(教規135条)。しかしそれ以上に一人の人が信仰を告白し、洗礼を受けることの重大さを思う。キリスト教国でない日本では、洗礼によって地縁血縁に不和を生じることもある。私の祖父大村房太郎は日下部教会で洗礼を受け、一家を信仰に導いたが、そのため寺の墓まで荒らされた。洗礼を受けなくても心の中で信じていればいい、聖餐もどうぞと言うなら、迫害の中で信仰生活を貫いた先人たちは嘆くだろう。私たちはこの国での伝道の経験(歴史)を記憶し、今後に生かしていきたい。
◇そもそも「5000人の給食」は本当に聖餐の根拠と言えるのだろうか。主イエスは素晴らしい奇跡を行った直後にしばしば、ご自分のことを誰にも言うなと命じた(ルカ8:56など)。「給食」のあとでも「このことをだれにも話さないように命じた」(9:21)。それは素晴らしい奇跡を行う人だという評判が広まって、主の使命の本領が発揮されない恐れがあったからだ。主の使命とは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)と預言される主の生涯の終わりに成就する出来事、そこに聖餐の原点がある。
◇「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼は水に沈んで十字架の主と共に古い自分に死に、復活の主と共によみがえること、ここに私たちの新たな可能性と希望がある。そしてそこに身をおく決断をした者の群れに分かたれるのが「聖餐」である。
◇「給食」の奇跡はなぜ実現したか分からない。ただ十字架と復活の主イエスが中心にいます時に、人間の限界を超えた可能性が開かれるのだ。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」(詩編23:5)。この真の飼い主の主催する希望の食卓に着く喜びを共にする教会、そこへの招きを語る教会でありたい。
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