2007/3/11 礼拝説教
「キリスト者の美しさ」 協力牧師 中野 実 先生
ローマの信徒への手紙 10:14-18
◇パウロは同胞が主イエスを信じない厳しい現実の中で今日の御言葉を語っている。しかしパウロは大胆に言う。「良い知らせを伝える者の足(歩み、存在)は、なんと美しいことか」!ここで語られる「美しさ」とは何か?プロテスタント教会にとって、伝道者とは「教職者」だけではなく、私たちキリスト者一人一人のことである。私たちは神からそれぞれの家庭、職場、学校に派遣されている。何か特別な事をするのではない。私たちは存在を通して「キリスト者の美しさ」を輝かす。
◇パウロが語る「美しい」という言葉のギリシア語はホーライオイである。「時季に適った」とも訳せる。人々が御言葉を聞いて、神を信じるために、まず御言葉を伝える者の存在が「時季に適って」きちんと備えられている。その素晴らしさをパウロは語っている。
◇もう少し別の視点からこの「美しい」という言葉を理解することもできる。私たちは「良い知らせを告げる者たち」である。何か特別なことをするわけではないが、「キリスト者の美しさ」を放つ者たちである。その美しさは「時季に適って」少しずつ準備された美しさである。
◇時が満ちて、ふさわしい季節になり、果物が熟している美しさ、花が満開になっている美しさを想像してほしい。キリスト者の美しさは、即席の美しさではない。時が少しずつ満ち、ふさわしい時季になって、十分に成熟した美しさ、じっくり時間をかけ、時季にふさわしく整えられていった美しさである。そこには、いろんな美しさがある。しかしそれはすぐには出てこない。
◇日本の教会の大きな問題の一つは、キリスト教信仰に入っても、すぐに卒業(?)してしまう人が多いことである。キリスト者の美しさは即席では身につかない。しかし自然にかもしだされる美しさにまで深まっていかないうちに信仰生活から離れてしまう人たちが少なくない。信仰に入ったからといって急激な変化があるわけではない。私たちがこのように礼拝をささげ、共に神を讃美する歩みを続けていく中で、知らず知らずのうちに私たちのうちに形成されていくものがある。この事をしっかり自覚したい。先がよく見えないという今の現実に対して私たちは不安を感じ、簡単な回答を手にしたいと願う。しかしそんな風潮の中で教会にしかできないことをやり続けていく。
◇目に見えないまことの造り主なる神を信じ、主イエス・キリストと共に歩む信仰の道は、すぐに答えが出ない。しかしどんな厳しい状況の中にあっても決して絶望しない道である。主イエスと共なる私たちの歩みは、ゆっくり着実に一歩を進めていくようなものである。この世の価値観からは無価値のように思われるかもしれない。しかし天地の造り主であり、私たちの主イエスの父なる神様をほめたためる歩みの中で少しずつ私たちの中に形成されていく「キリスト者の美しさ」は、「世の光」として、この世になくてはならない大切な導きの光として、この世の中で輝き続ける。その光栄な任務を覚えつつ歩みを続けよう。
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