礼拝説教


2007/3/18 礼拝説教

「神の愚かさ」牧師 大村 栄

ルカ福音書 20:9-19

 
◇ぶどう園の主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た。収穫の季節になり、収益を取り立てるために僕をつかわすが、所有の欲望にかられた農夫たちは契約を無視して、「この僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い帰した」。二度、三度と送られる僕も、いずれも追い帰した。

◇常識的に考えるならば、主人はこのへんで違う手を考えても良さそうなものだが、この主人は、「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と考える。何というお人好し、何と愚かなやり方だろう。案の定、農夫たちは息子を殺してしまった。美しいぶどう園を舞台に陰惨な殺戮がなされた。言うまでもなくこの主人は神のことである。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリント1:25)。この愚かさの中に、人の思いを越えた神の知恵と愛がある。

◇主人(神)と農夫(人間)との契約関係は、農夫を一方的に拘束するのではなく、彼らが誠実に働くなら主人はこれを養う責任がある。農夫の方は契約を無視したが主人は無視しない。あくまでこれに忠実であろうとし、繰り返し僕(旧約の預言者)を遣わし、それらが叩き出されたなら、ついに息子(キリスト)を遣わしてでも、農夫(人間)との約束を果たそうとされる。にもかかわらず、農夫らは息子を「ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」。ゴルゴタの出来事を暗示している。「都のそとなる丘の上に主をひきゆきしは何のわざぞ」(讃美歌261)

◇この事態を三人の預言者が追い返され、四人目はぶざまに殺されたと考えるだけで良いだろうか。「三位一体」を否定するあの異端的教派ならそう考えるだろう。彼らは十字架に死んだキリストが無力だったと言い、媒介なしに神に直接つながることを勧める。無力なキリストの替わりに、教祖様が神と人との媒介をすると主張するカルト宗教もある。しかし十字架は、人間的には非常識で愚かで敗北にしか見えない出来事であるが、それを通して、そこにこそ福音の真理が示されるのだ。

◇人間の常識では息子を殺された主人は、「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与え」て当然だ。しかし神はそうしないで、殺されると分かって送り込んだ独り子を、三日目によみがえらせることによって、あの陰惨な殺戮事件と、そこに至るまでの農夫たちの殺意や陰謀をすべて、なかったことにして赦された。

◇「赦し」は「許し」ではない。許可ではなく免除である。反乱を起こした者が処罰を受けないでよい、処罰の対象となる人間の罪はすべて神ご自身がこれを引き取って下さった。キリストのよみがえりは、様々な人間的弱さと限界の壁に悩み苦しむ私たちに、神がそれを超えて拡がる可能性を開いて下さった出来事である。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」(詩編84:6)。


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