礼拝説教


2007/3/18 礼拝説教

「わたしたちがなすべきこと」伝道師 北川 善也

マルコ福音書12:28−34

 
◇主は、十字架への歩みを進める中で徹底的な自己犠牲を示された。「心を尽くし、……力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(30節)は、誰よりもまず主御自身が徹底して実践され、「隣人を自分のように愛しなさい」(31節)も、主の十字架こそがその究極の実践であると言うことが出来る。

◇サドカイ派は、富裕層を取り込もうとしたが庶民は寄せ付けなかった。彼らは祭司階級として強い影響力を誇ったが、基本的に人間は自分を頼りにして生きるべきと考えていたようだ。一方、ファリサイ派は、学者中心の律法の厳格な実践に熱心なグループであった。彼らもまた、自分たちだけを「真のイスラエルの民」とし、庶民を軽蔑していた。この二大派閥が、当時の主流派として君臨していた。

◇主は、社会的影響力を振るっていた彼らの律法観を根底から覆すような全く新しい律法解釈を説き、それを実行に移された。そんな状況の行方を見守る群衆の中に、一人の律法学者がいた。あくまでも想像に過ぎないが、彼はどの派閥とも深く関わらず、もっぱら律法研究にいそしむ人だったのではないか。だからこそ彼は、主を陥れるために次々繰り出される難問を、主が見事に切り返すのを見て素直に心動かされたのだろう。そして、彼は主の前に進み出て、「すべての律法の中で、どれが最も重要か」という大変素朴な質問をした。

◇主は、即座に「第一の掟」(29-30節)を答えられた。これは、ユダヤ教徒の信仰告白として誰もが知っているような言葉だった。しかし、彼が第一のものを問うたにもかかわらず、主は、続けて「第二の掟」(31節)を挙げ、「この二つにまさる掟はほかにない」と断言された。こうして、あの有名な掟は全く新しいものに生まれ変わった。主は、「隣人愛の実践は、神への愛に基づいて初めて可能になる」と説かれたのだ。律法の根底には「愛」があり、律法を守る目的は「神の国に入るため」である。

◇この律法学者は、そのことに気付いた。だからこそ彼は、それが「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れて」(32-33節)いると述べたのだ。彼は、神殿に献げられるいけにえが定められた条件を満たしているか判定する仕事をしていたから、献げ物の価値を誰よりもよく知っていた。つまり、これは彼の信仰告白である。しかも、これは彼の意図したものではなかったが、いみじくもその言葉通り、神の赦しを乞うため、繰り返し献げられる犠牲を全く無意味にする出来事が、この後主御自身によって実現されるのだ。

◇彼は、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。これは、ただ「遠くない」場所にいて満足するのでなく、そこに入る最後の一歩を踏み出せという招きの言葉である。我々は、主がこの上ない愛をもって、御自身の命を一度切りの、しかも永遠に通用する犠牲として十字架に献げてくださったことを示されている。我々は、この出来事と真剣に向き合うことによって、初めて神の国に触れることが出来るのだ。

◇聖書を貫いているのは、神が人間のために存在するのではなく、逆に人間が神のために造られた存在だという教えである。人間の営み全ては神の御計画の中にある。だから、人間が生きる目的とは、まさに「すべて神の栄光を現すため」(Ⅰコリ10:31、06標語)に他ならない。しかし、我々は、全ての場面において、そのように生きることなど出来ない。そんな我々が神の御前に集い、礼拝を献げるよう示されるのは、我々がそのような弱さを抱える存在だからこそ、せめて礼拝によって生活全体を整えるよう教えられているのだ。我々が、与えられた賜物を主のためにお献げする人生を歩むことが出来るよう、また、神を愛するゆえに隣人に対して愛をもって接することが出来るよう、祈りつつ共に歩みたい。


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