礼拝説教


2007/4/15 礼拝説教

「エマオへの道−なおも先へ」
                  牧師 大村 栄

ルカ福音書24:13〜35

 
◇エマオはエルサレムの西12km。地中海に向かう西向きの斜面をタ方に下ると、正面に夕陽がある。二人の弟子たちは主イエスの死に絶望して、斜陽に向かって歩いていた。その時、復活の主イエスがそっと近づいて来て、同伴者となって下さる。

◇ラザロの墓で涙した主は、同時に「心に憤りを覚えた」(ヨハネ11:35)という。それは死が人々の心を神の愛から引き離している事に対する憤りだ(ローマ8:38-39)。葬儀が続き、繰り返し死の出来事に立ち向かう日々において私たちは、「死は終わりではない」ということを、聖書の信仰によって確信をもって語れる教会の喜びと 責任を心に刻んだ。

◇そういう復活の主が同伴者として共にいるのに、弟子たちはまだ気がつかない。やがて目的地に着いたが、なおも先に行こうとされるイエスを弟子たちは引き留める。(「主よ、共に宿りませ」讃美歌Ⅰ39)。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。この日常的な しぐさに、彼らは5000人の給食や最期の晩餐の食卓を思い出した。「すると二人の目が開け、イエスだとわかった」。

◇見えていたのに気づかなかったことを発見する。それは信仰の世界に起こる特徴的な出来事だ。先週祈祷会で読んだエレミヤ書33:3「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。それはBC6世紀、崩壊寸前の南王国ユダに語られた神の言葉。バビロン捕囚の先に救済があるこ とを告げる預言だった。絶望にしか見えない事柄の背後に神の支配があり、それによって人生と歴史は運行されていることを私たちは発見する。いつの間にか木々に青葉若葉が芽生えているのを発見するように、日常の中に日常を超えた大きなものが存在するのを発見するのだ。

◇弟子たちはすぐに「エルサレムに戻った」。そこには危険が待っているが、復活の主との出会いがこれに立ち向かう勇気を与える。現実を超えたその先に神の支配がある。私たちは主の日ごとに礼拝に帰ってくる。そして「なおも先へ行こうとされる」復活の主にお会いして、新しいエルサレムへと派遣される。こうして繰り返し 「エマオへの道」が「エマオからの道」となる教会生活を共に歩もう。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com