礼拝説教


2007/4/15 礼拝説教

「心の目を開いて」
                  牧師 大村 栄

ルカ福音書24:36〜49

 
◇復活の主イエスが再び弟子たちに現れ、「あなたがたに平和(シャローム)があるように」と言って入ってこられた。弟子たちは平和どころか亡霊かと思って恐れた。すると主は「何か食べ物があるか」と言って、出された焼き魚を食べた。これはかつての食事共同体を回復する<行為>だった。しかしそれだけでは弟子たちは理解できず、続いて<言葉>による説明(44節)も必要だった。

◇エマオへの途上では<言葉>が先にあった(24:27)が、弟子たちは理解できず、宿でのパン裂きの<行為>によって主の復活を確信した。順序は逆だがこれらの<言葉>と<行為>は、礼拝における聖餐と説教を表している。その二つを尊重して、礼拝堂には聖餐卓と説教台を中心に置く。

◇しかしそれ以上に大事なのは、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」頂く必要があったということ。「心の目」は神の意思に自分を適応させ、それによって自分自身が新たにされようとする心。私たちの内に備えられている神との接点である。そこが開いているときに神とのシャロームが実現し、周辺社会とのシャロ・璽爐砲眸・犬靴討い・まBR> ◇「見よ、わたしは戸口に立っ て、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3:20)。すぐ外に立って待つ主を迎える決断をするなら、あの食事共同体的交わりが実現する。

◇そのように心の目が開かれてシャロームが実現する時、主はさらに私たちを、その平和を語り継ぐ者として送り出される。「エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる」。ギリシア語で「証人」は「殉教者」と同義。命がけで証しする者だが、命を無駄に捨てるのではなく、活かし用いよと命じられる。この派遣を受ける場が、聖餐と説教を中心とする礼拝なのである。

◇こうやって彼らは最も困難な地である「都にとどまっていなさい」という派遣に従うことができた。私たちもそれぞれの「とどまる」べき場へと送り出されたい。そこに困難が待っていようとも復活の主が共におられ、「あなたがたに平和(シャローム)があるように」と語りかけて下さる。


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