2007/6/10 礼拝説教
「神の招きに応える者」
牧師 大村 栄
ルカ福音書14:15−24
◇次週「青年伝道礼拝」は聖書の告げる信頼と平安の人生への招きが響く礼拝にしたい。その招きはすべての人々に向けられている。ルカ14:15ではそれを「神の国で食事をする」ことと言い、それは「なんと幸いなことでしょう」と言う。これを聞いて主イエスは天国の食卓に招かれるのはどういう人か、人はこれにどう応えるも
のかをたとえで語られた。
◇招待は二度なされる。あらかじめ「招いておいた人々」が、当日になって「もう用意ができましたから、おいでください」と招かれる。事前の招きは旧約聖書であり、当日案内に来る僕はイエスご自身であり教会である。教会はこれを宣べ伝えてきた。
◇しかし三人の招待客たちは招きを断る。「畑を買った」、「牛を二頭ずつ五組買った」、「妻を迎えたばかり」。いずれも人生の一大事だが、彼らは一度は応じた神の国への招きを、自分たちの現状にそぐわないと言って拒絶した。旧約の預言に聞いてもキリストによる招きを拒んだユダヤ人を象徴している。しかし主人はそれで
も宴会を中止せず、あらゆる人を「連れて来なさい」と僕に命ずる。僕が「仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言う。
◇「無理にでも」という言葉が誤解され、強制的な伝道や異邦人への迫害などが正当化された時代があった。だが伝道とは「喜びへの招き」であり、「無理にでも」とは神の招きの熱意を表す。海外から来て日本の伝道に献身した宣教師たちは、そういう神の熱意に突き動かされて太平洋を渡り、この国の人々の救いに生涯を捧げて
くれたのに違いない。
◇その愛の計画を阻むものがたくさんある。しかしそれでも神の計画は、「この家をいっぱいに」という神の熱意によって果敢に進められる。「この家」は神の国である。そこへの招きを語るのが教会であるならば、今は教会を満たすほどの人を招くことが神の熱心であり、私たちが行う伝道の根拠である。
◇神の熱意を動機とするということは、この招待は招かれる側の資格は問わない。「通りや小道に出ていき…」。小道とは「かきね」(口語訳)。人と人を隔てるあらゆる壁を超えて「招け」と命じられる。神の熱意に動かされて教会の伝道に携わりたい。
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