礼拝説教


2007/6/24  礼拝説教

「見捨てない」          牧師 大 村  栄

ルカ福音書15:1〜10

 


◇羊飼いは見失った一匹の羊を求めて、山から谷まで捜しまわる。外典の「トマスによる福音書」ではこの羊は特別に素晴らしい羊だったとされている。だとすれば彼の行動は合理的だが、正典たるルカにおいては、一匹に特別な価値があった訳ではない。あるいは劣るような羊だったかもしれない一匹を捜し求めて、羊飼いはどこまでも果敢に出ていく。

◇羊飼いは99匹を無視した訳でもない。99匹の残しておかれた「野原」は、牧草のある豊かな、山や谷と違って見渡しの良い安全な場所だ。「主は羊飼い…。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い…」(詩編23:1-2)。羊飼いなる主が私たちを伴って下さる最良の安らぎの場、それが99匹の残された「野原」と考えていいだろう。

◇マタイの並行記事では99匹は「山に残して」(18:12)おかれる。マタイにおいて「山」はキリストが弟子たちに熱く語りかける場であり、彼らを派遣する場、「教会」を象徴している。羊飼いが見失った一匹を捜し求め、見つけたら連れ戻す教会。それは地上の教会を超えて、私たちが理想とし、目標とすべき見えざる「神の教会」である。

◇一匹を見つけて連れ戻した時の羊飼いの喜びようは大層なものだ。それは「大きな喜びが天にある」(7節)と、神の深い喜びである。迷子の羊は自分で出てくることはない。まして後半の「銀貨」は持ち主に発見されるのを待つしかない。にもかかわらず「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)と言うならば、悔い改めとは個人の自発的な行動ではなく、捜し求める側の主体的な行為であることが分かる。

◇主イエスは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(2節)と批判されたほどに手を拡げて、自分からは出てこれない失われた羊である罪人に接していかれた。

◇「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて…」と、私たちを「羊飼い」の立場に身を置いてごらんと、招かれる。そしてひとりの悔い改めを心から喜びたもう神の喜びに、私たちもあずかりなさいと勧められている。私たちが「阿佐ヶ谷にある神の教会」、「青草の原」として、この羊飼いの喜び、神の喜びを共有するような群れになることを願って止まない。
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