礼拝説教


2007/7/8  礼拝説教

「愛されてこそ愛せる」          牧師 大 村  栄

ルカ福音書7:36〜50

 


◇主が招かれたファリサイ派のシモンの食卓に「一人の罪深い女」がいた。シモンは儀礼的もてなしをするだけだが、招かれざる客である彼女は、「後ろからイエスの足もとに近寄り泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。彼女は主の言葉を聞いてこの方を愛する思いで一杯になったに違いない。

◇その時主が語っていたのは40節以下のような話しだろう。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。

◇この多額の借金は「罪」を示す。罪とは人間が神の意志に反して生き、行動することだ。それはいつも人を誘惑し道を誤らせると共に、恐れや不安をもたらす。しかし罪を罰する立場にある神が、赦すと言って下さるなら、そこに新しい人生が始まる。誰よりも自分の罪を深く自覚している彼女は、到底返済出来ないと思っていた自分の借金が赦されると知って、感動と感謝に涙を流し、人目を気にせず長い髪をほどいて主の足をぬぐった。

◇シモンはこれを見て、「この人がもし預言者なら自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ」と思った。預言者は人を見通す力があるからこの女がどんな職業か分かるはずだ。そして預言者は人と社会の罪を糾弾する者だから、この汚れた女を厳しく叱責すべきだ。彼はそう考えた。だが預言者は批判するだけでなく罪人と共にあろうとする。エレミヤの行動にそれを見る(エレミヤ書43:1-8)。

◇主は罪を指摘して批判するのではなく、その罪人と共にいようとし、借金の代償として自分を差して下さる。彼女がそのことを確信した時、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と赦しの完成を宣言されたのである。

◇借金を帳消しにされた(罪赦された)時、「どちらが感謝するだろうか」ではなく、「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と問われる。罪の赦しとは愛することなのだ。そして愛と赦しの究極は、赦す相手と共に、その者のために生きること。私たちも御言葉によって赦しの言葉を聞いたなら、それを生きる者でありたい。
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