2007/7/15 礼拝説教
「主よ、しかし」
伝道師 北中 晶子
マルコ福音書7:24−30
◇「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けて下さい。しかしわたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。これは主イエスが十字架につけられる前の夜の祈り。やがて訪れる十字架の苦しみを思いながらも神の計画通り行われるようにと祈った。これは祈りの見本と言える。私達の願いを越えて、神は最善を示して下さるから。
◇だが、自分の願いより神の御心を求めて忍耐強く祈ることの出来ない人もある。何が最善かを問い、自分の願いが正しいかどうかなど反省する余裕は一切ない人。必死であるがゆえに、主イエスに対して言い返し、説得によって主の考えを変えてしまった人の姿からキリストのよい知らせを受け取りたい。
◇主イエスの一行が、異邦人の地であるティルスの地方に行った。この地方出身の母親が、女性であり異邦人でもある自分と主イエスとの間にある隔たりを無視する形で、強引に「娘を治して下さい」と求めた。女性の大胆な、そして必死の願いに対して主イエスは言われた。「まず、子ども達に十分食べさせなければならない。子ども達のパンを取って、小犬にやってはいけない」。子ども達とはユダヤ人のこと、小犬とは異邦人のこと。まずはユダヤ人のためである救いを、先に異邦人にやってはいけない。
◇母親は諦めない。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。もともと主イエスの使った「子ども」の語と母親のそれとはニュアンスが異なる。前者には「子孫」「跡継ぎ」などの意があるのに対し後者にはそれがない。先の比喩におけるユダヤ人と異邦人との関係は問題にされていない、問題はただ娘が病気であることだけ。主イエスはこれに心を動かされた。
◇心動かされる神を頼りないと思うだろうか。だが神が心動かされないなら、私達の希望はない。私達の願いがすべてなのでなく、すでに決定的に心動かされた神を、キリストの十字架にみる。神の御心を求めたいと思う私達だが、そもそもそのように祈った主の名によって、私達も神に願うことをゆるされた。考えや理屈の正しさではなくただ必死の思いから「主よ、しかし」と言った母親の姿を、よい知らせとして受け取りたい。これによって心を変えられた主が、そこに確かにおられるからだ。
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