2007/8/12 <聖霊降臨節第12主日>礼拝説教
「試練と希望」
伝道師 原田 譲治
1ペトロ1:3−9
◇日本人にとっての八月は、先の戦争という惨劇、異教に発する盆という習俗や御巣鷹山の航空機事故など、命をめぐる根本問題や不条理に思いをはせることの多い日々だ。だが試練の記憶は、灯籠流しをしておしまいというのであってはなるまい。試練はキリストにあって希望に変えられる。新たな生の歩みを踏み出すことが私達には許され、また勧められていると、聖書は告げるのだ。
◇肉体にはやがて滅びが訪れ、この世の命もひとたび絶たれて私達は天に召される。このことの対極にあるのがキリストの昇天だ。例えば使徒1章で、神の国とイエスの再臨とが不可分であると示されるのは、昇天の記事においてである。この救いの成就の「時や時期」は、世に属さない。私達の「知るところではない」という。「父の約束された」聖霊は、私達をしてキリストの証人として世に生かしめ、再臨と神の国の到来への備えを得さしめる。
◇本日のペトロ書テキストは、「今しばらくの間」の、世の「いろいろな試練」を否定しない。しかしそれは、神の時である永遠のうちに生きるという希望を与えられて、相対化される。「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている」私達に与えられる真の希望が、頌栄的に説かれている。この神の力こそが先述の聖霊に他ならない。試練を希望へと転換させる絶対的な力は、世の力に非ず、聖霊の力なのである。
◇私達自身の霊をも含めて、諸霊のうごめきに改めて気づかされるこの日本の夏こそ、諸霊から聖霊を識別する信仰に立ち帰りたい。復活のキリストによる「生き生きとした希望」は、聖霊の与え給う祈りの静謐の中で息吹を与えられ、世に息づく。世の政治主義が説く「希望」は、それがいかに平和への尊い祈念に満ちていても、息づくことはない。しぼんでゆく人間の希望に、復活の主は繰り返し息を吹き込み、支えられる。深い嘆きを吐く者の傍らに聖霊は訪れるだろう。静かな祈りの時こそ、その気づきへの備えだ。夏こそ祈りの静謐を大切にしたい。
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