2007/10/14 礼拝説教
「聖なる者たちに仕える」 T・J・ヘイスティングス東神大教授
<神学校日・伝道献身者奨励日>
出エジプト記16:2-15 エフェソ書4:1-16
◇神学校日にあたり、教会と神学校の密接な関係を確認しつつ、キリスト御自身が立てられる献身者、教会の「聖なる者たち」に仕える教職者のつとめについて考えたい。「仕えられるためではなく仕えるために」きたキリスト(マルコ10:45)は、教職者と信徒とを問わず、私たちの生き方の模範である。キリスト御自身が私たちを特定の役目に召し出し、御自身との新しい関係に招かれる用いられる者として、キリストは私たちにふさわしい装備を与える。牧師だけでなく一人ひとり全員が、キリストの御用のため、その跡を歩んでいくために恵みを与えられる。
◇エフェソ4:11−13によると、「聖なる者たちに仕える」教職のつとめは、教会全体の益に繋がっていく。言うまでもなくプロテスタント諸教会の伝統において、牧師は信徒よりも高い位置を占めるのでなく、教会に仕え、教会全体の益のために特定の役目を授けられた者として理解されてきた。
◇私たちはそれぞれ自分の経験から、何らかの「牧師像」を胸に抱いていると思う。教会の信仰が歴史の中で人から人へと伝わってきたように、牧師が少しでもキリストの御姿を反映する時、それがモデルとなって次世代に仕える献身者が生まれてくる。私自身、今でも影響され続けるそのような牧師がいる。神学生時代にその人から教えられたことは、牧師の主要なつとめは確かに礼拝で福音を語り、聖礼典を執行することだが、牧師を左右するのは、誰も見ていない時や誰の助けもない時に何をするかである、ということだ。会堂の故障から教会員の突然の不幸まで、この人はひそかに喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、その都度必ず教会員と共にいた。
◇予期できない事態に直面しても、これを教会員と地域の人たちのために祈るよう与えられた機会として受けとめる。このようなつとめによって教会員が「奉仕の業に適した者とされ」、また「聖なる者たちに仕える」ものが生まれ、そして「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのもの」となっていく(4:13)。
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