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2007/11/25 礼拝説教
「永遠の命に至る食べ物」 牧師 大 村 栄
ヨハネ福音書6:22−35
◇5000人をわずかの食糧で満腹させた主イエスを、人々は王にして経済的な安定を得たいと願った。しかし大事なのは一度手に入れても無くなって次を求め、常に欲望に引き回されるような「27:朽ちる食べ物」ではなく、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」だ。群衆はそれを得るための条件を問うが、「29:神がお遣わしになった者を信じること」、ただキリストを信じる信仰によってこれを得ることができると主は言われた。
◇すると群衆はキリストを信じるための保証を求める。かつて先祖がシナイの荒れ野で神の加護のしるしとして得た「31:マンナ」のように。だが今はマンナの代わりに「パン」が与えられている。「35:わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。そのパンを下さった神の意志は「39:わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」。
◇今日はアドベント直前の「終末主日」。いちばん最後にいちばん良いものがあると信じる希望によって、私たちは「飢えない、乾かない」本当の命を生きることができる。それは「終わりの日」に実現するが、同時に信じる者を今ここで新たにする。それが「永遠の命を得る」ことだ(ヨハネ3:16)。聖書は福音の中核であるこの真理を私たちに語るが、薬の効能書きと同じで、読んだだけは意味がない。それを飲む(生きる)という決断が不可欠だ。
◇群衆はやがて41節以下で「つぶやき始め」る。自分の立場を崩すことなく、キリストによる利益だけを求める者が直面する限界である。「群衆」と呼ばれていた人々が、この頃から「ユダヤ人」と呼ばれる。それはイエスを十字架に付けた人々のことだ。自分を変えようとしないで、キリストを評価し判断する者は、彼を否定し十字架に付ける者となる。
◇「永遠の命に至る食べ物」を素直に食べて飲み込もうではないか。そのことを象徴するのが聖餐である。主を信じて洗礼を受けた人だけが受ける。神からの賜物である命を、すべての人と共に喜び、尊び合うという、世界を変える業がここから始まる。
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