礼拝説教
> 

2007/12/9  礼拝説教 

「聞き入れようと拒もうと」  牧師 大 村  栄

エゼキエル書2:1〜10


◇預言者エゼキエルはバビロン捕囚の只中で、神への信頼とそれによる希望を宣べ伝えた。エルサレム神の殿は破壊され、聖所を失った民は神も失ったと悲観していた。しかしその絶望の地、異教徒の土地にも神はその栄光を現されたのだ。

◇そしてその神が預言者を派遣する。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている」(2:3)。先祖の罪を子孫が引き受けさせられるだけではない。子孫たち自身の不信仰も指摘される。

◇「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:4)。因果応報という法則や運命に支配されるのではない。「すべての命はわたしのもの」と言われる神にのみ支配される。親のせいだとか、運命のせいだと言い訳をするのは、聖書の信仰に生きる生き方ではない。

◇預言者は恐れずに語れと命じられる。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」(7)。捕囚によって民は神に絶望している。それゆえの拒絶反応がある。絶望のあまり人は「見ざる聞かざる」状態に陥ることがある。希望を見ても受け入れず、聞いても聞き入れようとしない。そういう民に預言者はたとえ拒絶されても神の言葉を語れと命じられる。

◇「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5、招詞)に似ている。口語訳聖書は、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と訳していた。その方がうれしいが、正確なのは新共同訳の方である。捕囚のような暗闇の中で、人はそこにも注がれる神の恵みの光を理解できなくなっている。

◇そこへ「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」(同1:6-7)。預言者たちの命はそこに捧げられる。そして彼らの使命は、今や教会に委託されているのである。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com