礼拝説教


2007/12/30  礼拝説教 

「私たちに見えるもの」  伝道師 北中 晶子

ヨハネ福音書1:14〜18


◇「言(ことば)は肉となった」。すべてのことに先んじて、世界を支えるものとして、言ははじめにあった。そして肉は、どこまでもこの世的なもの、形あるもの、不完全なもの。私達は肉の世界に生き、肉をよく知っている。言が肉となったという事は、その私達にもキリストが見えるようになったという事だ。闇の中でこそ光がよく見えるように、肉の世界をよく見るならば、そこに言が見えてくる。

◇しかし肉なる私達の世界は、いわば神が隠れやすい所でもある。どこに神がいるのかと問う。私達にできるのはただ、私達に見えるものをよく見ること。そこに起きていることが本当に見えているのかをいつも問いながら。十字架に架けられたキリストは、傷だらけになって死刑にされた一人の男だった。これを見て誰が全世界の希望を読み取ることが出来ただろうか。だがひとたび救いの出来事を知らされれば、もはやそれを忘れて十字架を見ることは出来ないだろう。復活を抜きにして十字架を見ることは私達にはできない。同様に、復活もまた、十字架抜きでは語れない。私達は肉を知らずに言を知ることは出来ない。

◇歳末礼拝の今日、一年を振り返って、何が見えるだろうか。どんなに個人的なことでも、そこに見えるものをよく見たいと思う。すべての人を救うためにキリストを世に送られた神は、洗礼者ヨハネの叫びのように、キリストを「後から来る者」とした。私達の苦しみ悩みがあってから、まさにそこに、キリストが来られる。すべてのことの礎にあり、はじめに、何よりも先におられた方として、キリストがすべての後から来られる。そこにあるのはまさに「満ち溢れる豊かさ」。何をも誰をも漏らさない、満ち満ちた完全さ。

◇このキリストにあり他のどこにもないものこそ、十字架の死と復活。極めてこの世的な十字架の死と、それに続く復活に、栄光がある。十字架の死と復活が神の愛の姿ならば、私達はこの世で与えられた恵みと、また十字架の重みを噛み締めつつ、その栄光を確かに見たいと願う。そこに見えるのはもはや肉なる世界だけではなく、神ご自身の姿である。


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