礼拝説教


2008/2/10 礼拝説教<創立84周年記念礼拝>

 「恵みの座に近づこう」  牧師 大村 栄

ヘブライ書4:14−5:10


◇見出しは「偉大な大祭司イエス」。人間の祈りを神に執り成す大祭司の資格が三つ書かれ(5:1-4)、続いてイエスこそがその三つを満たす方だと告げる(5:5-10)。信仰生活とは、あらゆる問題の解決がただ大祭司キリストのとりなしによって神から与えられると信じることである。「基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中へはいればいい/彼につれられてゆけばいい」(八木重吉)。

◇「だから…大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)。キリストがおられる神の右の座のことを指す「恵みの座」だが、旧メソジスト教会ではひざまずいて聖餐にあずかる講壇の柵のことをそう呼ぶ。従って「恵みの座に近づこう」とは、自発的に礼拝に行くこと、聖餐にあずかること、その前提として洗礼を受けることを意味する。そこへ行けば「15:わたしたちの弱さに同情」して下さる大祭司イエスがおられ、私たちは「16:憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただく」ことが出来る。「浮き世のあらなみ逃れて安らう静けき港は恵みのみ座なり」(讃美歌Ⅰ315)。

◇阿佐ヶ谷教会は「イエス・キリストの召集によって成立する、信仰の共同体」(基本姿勢1)である。「聖餐共同体」とも言い換えられる。「恵みの座」での出来事とそこへの「召集」は教会の命である。そしてそこから私たちは、世における奉仕へと「派遣」(基本姿勢3)される。そして「召集」と「派遣」をつなぐのが、教会の「交わり」(基本姿勢2)である。

◇聖餐の究極のルーツは「最期の晩餐」だ。その晩主が12人の弟子たちに別れを告げ、彼らに宣教の使命が委託された。日本的には「固めの盃」とでも言うべき、重い献身の決意を伴う食卓だったはずだ。それを起源とする聖餐は今もそういう出来事なのである。受洗者・未受洗者を問わずに、誰でも聖餐にあずかれるという主張には共感できない。

◇十字架と復活ですべてを「解決」して下さる「大祭司イエス」を信じる者が「恵みの座」に近づき、ここで「わたしたちは主のもの」(詩編100)と確信し、ここから各自の持ち場へ派遣される。そういう信仰と決意を新たにして創立85年目に踏み出そう。


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