礼拝説教


2008/2/24  受難節第3主日礼拝

 「いつものように、いつもの場所で」  船本 弘毅先生

ルカ福音書22:39〜46


◇ゲッセマネの主の祈り、「わが思いでなく、みこころのままに」に学ばされて、私も若い頃は「ただ主の御心を行う者として下さい」と祈った。しかし「時が経つに連れて、事情は次第に変わってきた」(M・ブーバー)。「わが思いでなく」と願いながら自己中心的でしかあり得ない自分と直面する。

◇「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われて「神からのメシアです」と答えたペトロに受難の予告が語られた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」(ルカ9:22)。そして主は受難の町エルサレムへの道を「先頭に立って進んで行かれた」(マルコ10:32)。イエスの決意が伝わってくる。

◇しかしイエスはゲッセマネの園で祈られた、「父よ、御心なら、この杯(十字架)をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)。さらに「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)。「この言葉はイエスが人間になるふりをした神ではないことを示している」(アラン・ペイトン)。イエスはさし迫った死への恐怖に満ちていた。自分は「排斥されて殺される」と覚悟を語ったイエスだが、ここでは死をまぬがれさせて下さいと祈っている。

◇人生の思いがけない不幸に直面したとき、ニネベとは正反対の舟に乗ったヨナのごとく逃げ出したくなる私たちが、「御心のままに」と祈ることは困難である。これは人間の自然な祈りではなく、まさに主がなさった「主の祈り」なのである。そして私たちはこの祈りに支えられ、守られ、救われている。

◇ルカにおける「ゲッセマネの祈り」の記事は、他の福音書に比べて極めて簡潔だが、この壮絶な祈りが「いつものように、いつもの場所で」捧げられたと記す。「祈らないことが最大の罪である」(フォーサイス『祈りの精神』)。イエスは十字架に着くことを決意し、先頭に立って進んでエルサレムに入城した。その緊張の中で過ごす数日だったが、それでもイエスは「いつものように、いつもの場所で」祈られた。私たちの信仰がなくならないように祈って下さる祈りに支えられて生きる者でありたい。


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