2008/3/9 受難節第5主日礼拝
「いのちの終わりはいのちの始め」 牧師 大村 栄
ヨハネ福音書12:20−26
◇「23:人の子が栄光を受けるときが来た」。文化的ギリシア人の訪問を受けて主イエスがこう言われるのを聞いた弟子たちは、遂に先生が輝かしい世界伝道に着手されるかと期待した。しかしそれに続いたのは予想外の言葉だった。「24:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。そしてご自分だけでなく、誰でもこのような生き方を選ぶ者は豊かな命を生きると言われた。「25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
◇「命」、英語のライフ(Life)を「生命」と訳すのは医学の世界、「生活」と訳すと福祉の世界、これを「人生」と訳す部分を教会が担うと言われる。「自分の命を愛する者」とは、「生命」や「生活」に執着し、「人生」の意味や目的を考えない人。そのような人は「それを失う」。いや既に失っている。
◇しかし一方「自分の命を憎む(捨てる)人」とは、『塩狩峠』(三浦綾子)の主人公のように「生命」を差し出す人とは限らない。自分の「生活」と「人生」を他者のために捧げることによってそれが豊かに用いられ、「多くの実を結ぶ」のである。
◇そのような命の使い方をする人は「永遠の命」に達する。それはただ長く続く命ではない。絵本『葉っぱのフレディー』のように生命のサイクルに組み込まれるのでもなく、『千の風になって』大空を吹き渡るのでもない。
◇「26:わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。…父はその人を大切にして下さる」。主の「いるところ」であり、父なる神が「大切にしてくださる」その場所に私たちも迎えられる。それが「永遠の命」に生きること。それは来世の希望だけでなく、今ここで私たちを生かす希望の「約束」である。
◇「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3:11)。永遠を思い、神のみわざを感じる心は与えられているが、「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(同)。「神のなさること」を知る唯一の方法は、キリストの十字架と復活を仰ぐこと。「一粒の麦」として死に、「多くの実を結」んだ主を仰ぐ受難節である。
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