礼拝説教


2008/4/6  復活節第3主日礼拝

 「同じからだの各々の部分」(新年度教会標語)  牧師 大村 栄

1コリント12:12−31


◇2008年度の教会標語として、1コリント12:27「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」が与えられた(週報中央には短縮して書く)。体は手や足やそれぞれ異なった部分から成っていて、一つも同じ部分はない。各々が相応しい位置を与えられ、助け合って機能している。またキリストのみを頭とし、他の何ものも頭としない。この「体」とは教会をさしている。

◇その「部分」である私たちは互いを尊重し合うべきである。「18:神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」。神の配置を人間の規準で評価し、責め合い、互いを軽んじてはならない。教会の中には序列でなく分担がある。「28:第一に使徒、第二に預言者、第三に教師…」。しかし続く言葉はコリント教会には問題あったらしいことを推測させる。「29:皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。…」。どうやら能力のあるなしを批判し合ったらしい。パウロはそういう競争をやめて、「31:もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧める。

◇その「賜物」とは何か。それは続く13章の「愛の賛歌」で語られる。立派な能力(賜物)より、互いを愛し合う愛。それこそが教会の一致をもたらす大切な賜物だと言う。聖書の愛(アガペー)は「捧げる愛」である。自己絶対化を放棄して、他者のために、他者と共に生きる。そのような愛を生きることが教会をキリストの体として活かし、互いを大切な部分同士として尊重し合う方法である。

◇教会はキリストを頭とする体であって、いかなる人間の思いや計画にも支配されず、ただ聖書の福音によってのみ生きる。そのことが確立しているならば、体のそれぞれの部分である私たちは、キリストの元で各自に与えられた機能を発揮して、他者のため、互いのために奉仕する。扇の要がしっかり止まっていれば、扇は広く拡がり豊かな風を起こすが、そうでなければバラバラになってしまう。

◇かしらなるキリストを仰ぎ、キリストへの忠誠と一致を確信した上で、キリストがそうなさったように、それぞれの置かれた場で仕える者とされたい。そうやって教会がパイプオルガンのようにたくさんの音を重ね合って、高らかに神の栄光を讃美し、それを世界の希望として響かせようではないか。

   

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