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H2>2008/6/1 聖霊降臨節第4主日
「真理をさす指となれ」 牧師 大村 栄
ヨハネ福音書3:22−36
◇洗礼者ヨハネをメシアと期待する人々がいた。第四福音書は「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1:8)と、彼は救世主ではないがそれをさし示す「指」であると語る。
◇ヨハネは、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と叫び、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を宣べ伝えた。主イエスは神の赦しと愛を語った。当然、人々はヨハネよりもイエスの方に大勢集まった。私たちも「悔い改め」より「赦し」、「裁き」よりも「愛」を欲するものだ。しかし悔い改めを抜きにして罪の赦しを語ることは本末転倒だ。
◇いま教団は「未受洗者への配餐」の問題で揺れている。先週の教区総会でも激しい議論がなされた。バプテスマはヨハネが説いた通りに、罪の「悔い改め」のしるしである。そこに罪の「赦し」が恵みとして注がれ、それを感謝と畏れを持って頂くのが聖餐である。「悔い改め(洗礼)」と「赦し(聖餐)」の順序を、私たちはそのように理解したい。
◇ヨハネの弟子たちは、「26:みんながあの人の方へ行っています」と、イエスに対するやっかみを口にする。するとヨハネは「27:天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と語る。自分の地位は自分で獲得するものではなく、神から与えられるものであり、それをただ受けるのだという意味である。自分が支配的であろう、主役であろうとするのをやめて、ヨハネのようにもっと従属的、脇役的な役目を担う者だと知るなら、人生をより平安に、有効に生きることができるかも知れない。
◇さらに自分を「花婿の介添え人」にたとえ、民を「花嫁」に、主イエスを「花婿」にたとえている。「29:花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」。自分は主が民に近づくための媒介に徹しようとしている。「30:あの方(主イエス)は栄え、わたしは衰えねばならない」。ここに生涯を捧げる喜びと目標がある。
◇ヨハネは「真理をさす指」だった。ごつごつした不格好な指だが、指自体にでなく、その指し示す方向に真理がある。その真理を指し示すことに指の使命があり、喜びがある。真理を指し示し、多くの人の心の視線を、そこへと向かせる阿佐ヶ谷教会であり、教区・教団であり、世界の教会でありたい。
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