2008/6/8 聖霊降臨節第5主日
「生ける水」 牧師 大宮 溥
ヨハネ福音書4:1−15
◇プロテスタント宣教150周年を明年に控えて、日本基督教団ではこの4月に隠退宣教師への感謝ツアーを実施した。クラーク先生をも含む多くの先生方とお会いして、日本伝道のために捧げられた尊いご生涯に深い感謝を覚えると共に、キリストの教会が一つであることを経験した。
◇世界伝道の第一歩はユダヤからサマリアへであり、ヨハネ福音書はそれが主イエスご自身によって始められたと記している。シカルの泉で主は水を汲みに来たサマリアの女に一杯の水を求められた。主には民族対立の偏見などはなかったのである。不審に思う女に対して、主はもし自分のことがわかれば「あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)と語られた。
◇主は「生きた水」という言葉によって、神の霊を与えようとされたのに、女はそれを「流れる水」のこととして物理的に解釈した。そこで主は彼女の罪を指摘し、新生の霊を求めさせ、又それを与えられたのである。
◇このような霊的世界への無理解による霊的枯渇状態に現代人も陥っている。今年2月にワシントンで開催されたナショナル祈祷朝食会に出席して、昨年のゲスト・スピーカーであったフランシス・コリンズの著作に触れた。人体ゲノム分析計画のチーム主任をつとめた、著名な生科学者であり医師であるこの人が、宇宙の起源や生物進化の最近の研究から、神の創造の働きを信じるようになり、生命倫理の問題と取り組む中で、人間の内にある道徳律に気付き、「ナルニア国物語」で有名なC.S.ルイスの著作を通じて、キリスト教の信仰に導かれた。そして祈りによる神との交わりの中で、キリストによる罪の贖いと復活の生命に与る経験を与えられたのである。これは「生ける水」の泉を与えられた経験である。
◇現代人は、サマリアの女が物質的な「流れる水の泉」を求めたように、石油の油田のような物質的な関心は高いが、霊的なものには無関心であり、霊的な枯渇状態にある。それによって人間性が失われている。キリストとの出会いによって、渇きを癒され、霊的砂漠化の時代に「生ける水」の運び手として生きたいものである。
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