礼拝説教


2008/6/22  聖霊降臨節第7主日

       「イエスと出会った女」 牧 師 大村  栄

ヨハネ福音書4:27−42 


◇4:1以下の「イエスとサマリアの女」の続き。大宮溥先生は6月8日の説教「生きた水」で、それは主イエスご自身によるユダヤからサマリアへの、最初の世界伝道であったと語られた。

◇「生きた水」を受けた女は黙っておれず、「28:水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『29:さあ、見に来てください。…この方がメシアかもしれません。』30:人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」。炎天下に水汲みをするほど人目を避けて暮らしていた女が、人前で大声で語っている。その変化に動かされて人々はイエスのところへ行った。イエスと出会った者の偉大な変化だ。

◇その後、主は弟子たちに、ここサマリアでなすべき福音宣教について示される。弟子たちは「35:刈り入れまでまだ四か月もある」と言っていた。それは種蒔きから刈り入れまでの常識的日数。サマリア伝道は種蒔きに着手したばかりだから、その成果を得るにはまだ時間がかかるだろうと思った。しかし主は言われる、「35:目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」。それは人間の考える規準で判断できるものではないのだ。

◇そして「38:あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」と言われる。刈り入れの前提である種蒔きの労苦は、私たちの担なう分野ではない。主が弟子たちを遣わす際に言われた言葉「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)にあるように、種蒔きのためでなく、最後の刈り入れのためだけに働き手を必要とされている。この「収穫」とは人の手によらず神が備えられた収穫である。人間はそれを取り入れる作業にのみ召されている。神はすでに、救いを求める魂を各所に起こしていて下さる。私たちが伝道の困難をなげく時も、その困難な現実を超えて、すでに神の収穫は多く備えられている。

◇私たちの行く手を阻む苦しい状況が相次いで起こっても、きっと神はそこにも、その先にも最良の時を備え、喜びの時を用意していて下さる。「この世はみな神の世界、悪魔の力が世に満ちても、わが心に迷いはなし。主こそがこの世を治められる」(讃美歌21-361)。神の世界に御業が満ちていることを信じて、多くの人と分かち合っていこう。その作業に参与することを教会の使命とし、喜びとしたい。



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