礼拝説教


2008/7/27  聖霊降臨節第12主日

       「生きるために、必ず要る」 伝道師 北中 晶子

ヨハネ福音書6:41−59 


◇私たち生きている者にとって、「本当に生きる」という表現は特別な意味を問うものだ。主イエスによれば、それはキリストを「食べる」ことによって得られる。

◇食べることは私たちの生において不可欠だ。必要だから毎日繰り返している行為の中に、しかし完全には知ることのできない不思議さもある。自分の外、眼前にあるものを、自分の内に取り入れ、見えないところでそれが自分自身になっていく。これは、食事の大切な一面である「誰と・いつ・どこでするのか」ということにも関わってくる。自分の内に入り自分を形作っていくのは、食物だけでなく他者との交わりでもある。そこにもやはり完全に知り尽くすことの出来ない不思議さがある。

◇「私を食べなさい」というキリスト・イエスの言葉は、私たちにとってこのように身近でもあるが、一方で「私を」というところに特異さがある。ご自分を「天から降って来たパン」と呼んだことが、主イエスの生い立ちや出身を知る者たちにとってつまずきとなった。天から降って来た、とは、私たちの目には見えない神のもとから遣わされた、ということに他ならない。どんなパンも当座の空腹を満たすものでしかないが、神から遣わされたキリストは、ご自分こそ本当のパンであると言う。キリストによってのみ神を知り、神を信じることができる私たちは、キリストを食べることによってのみ、永遠の命の道を歩き始める。

◇キリストによって私たちはまったく別人になったり別世界に飛ばされたりはしない。しかし慣れ親しんでいたこと、知っていると思っていたことに、キリストが新しい次元を開いて下さる。神に愛されているもの、神に生かされているもの、神が求めているものとして、これらが新しく立ち現れてくる。

◇キリストを、頂くことさえできるならば。その肉であるパンを実際に食べ、その血であるぶどうの汁を実際に飲むことは、肉なるキリストと共にそこに約束された希望を頂くことだ。私達たちはキリストを信じ、食べるならば、いつもキリストの内におり、またキリストもいつも私達のうちにいる、と言われている。この世界を本当に知り、隣人と本当に出会い、本当に生きることが、今・ここで、すでに始まっている。



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