2008/9/21 聖霊降臨節第20主日
「永遠の住まいを見上げて」 牧師 大村 栄
Ⅱコリント5:1〜10
◇「1:地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている」。信仰者は人の手で造られた、目に見える一時的な地上の住まい(幕屋)に固執するのでなく、「1:天にある永遠の住みか」を望みとして生きる。そういう高い目標に目が開かれた時、人はそれまでの幕屋での生活の空しさや、地上の苦しみから解放されたいと願うようになる。「2:わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」。
◇地上に生きたままで、天の家に住まうような「重ね着」ができれば良いがそうはいかないので、地上の煩わしさに苦しみもだえる。ギリシヤ哲学では肉体の束縛から解放され、魂が自由になることを最高の望みとした。先に召された家族がいる世界に自分も移りたいと思うことがある。「天なるわが家をあおぎ見れば、なみだにかすめる目も晴れけり」(讃美歌330)。こういう希望を魂の支えとする人を厭世的と批判するべきではない。
◇ただし天国のゴールに入る前に、だれもが通過しなければならない段階がある。「10:わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」。生前の行ないに応じて判定がなされる。私たちはそんな裁きに耐える自信はないから、ますます「苦しみもだえ」ているのだ。
◇ミケランジェロの描く「最後の審判」のように、キリストが裁判長席に着かれるだろう。しかし幸いなことに、私たちのかたわらには「弁護者」なる聖霊が立ち、私たちを「裁き」に耐える者として下さる。「5:神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」。放蕩息子がボロボロになって帰ってきた時に父は、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ」なさいと命じた(ルカ15:22)。神の愛と赦しのしるしである聖霊を「着る」ことができるという恵みを、パウロは「重ね着」という言葉で表現するのだ。
◇こうして「1:人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」を目指すことが、私たち個人と世界の、最後にして最高の希望として神ご自身から与えられていることを喜び合いたい。
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