礼拝説教


2008/9/21  聖霊降臨節第20主日

       「苦難の意味」牧師 大村 栄

ヨブ記 42:1−6


◇信仰深い資産家ヨブは、財産と家族を一気に失った。そこには人間の信仰を疑うサタンの神への挑戦が背後にあった。しかしヨブは「主は与え、主は取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1:21)と耐える。それはまだ自分の身に害が及んでいないからだとサタンは言い、今度は「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた」(2:7)。

◇泰然としていたヨブも、やがて自分の生まれた日を呪うような、苦悩と悲嘆の言葉を発する。ヨブを見舞いにやってきた4人の友人たちは、初めは彼を慰めていたが、やがてヨブには結局苦難を受けるだけの秘かな理由があるのだと主張しだす。古今東西にある因果応報、勧善懲悪の思想が彼らの主張の背景にある。現代人にもそれは色濃くあると言わざるを得ない。そしてそれは何の解決にもならない。

◇これに対してヨブは、自分には何の責任もないはずだ。この苦難の責任はむしろ神にあると言い、友人たちでなく神に直接語りかけ、問いかけていく。すると38章にその答えがある。私たちも発するそのような悲痛な問いに、神は必ず応えて下さる。

◇ただしそれは神からの問い返しだった。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(38:2)。「経綸」とは「神の計りごと」。それをおまえはどこまで知っているのか。「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:3)。以下でヨブは、天地宇宙のあらゆる事象における神の支配を見せつけられ、遂に神のみ前に「まいった」と言わざるを得ない。

◇「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42:5)。ここで「聞くこと(=語ること)」は、議論して納得すること。「見ること(=沈黙すること)」はより直接的な神体験だ。喪失の時、失望のどん底において、ヨブはしっかりと神との直接的出会いを体験した。

◇「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)というサタンの問いに対する答えがここにある。すべてを失っても、いや失ってこそ、理由なしに神を信ずることが出来る。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(詩編46:11)。ヨブの道の終わりが神の道のはじまりだった。「一人子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」神のみ前に静まる平安と、信じて任せることの出来る恵みを味わおう。

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