礼拝説教


2008/11/2 降誕前第八主日

       「信仰の外側」

牧師 大村  栄

マタイ福音書23:25−36


◇マタイ10章の見出しは「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」。主イエスはその人々が「2:モーセの座に着いている」と、彼らが律法(神の言葉)を伝達する権威を持っていることは認める。「3:だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と。しかし「3:彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである」。「ファリサイ」とは「分離」の意味だが、彼らの問題は言葉と行いの「分離」にあった。主はそれを「偽善」と呼び、「26:まず杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」と指摘する。

◇彼らは「27:白く塗った墓に似ている」。「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」。汚れた墓に夜など間違って触らないよう白く塗った。外はきれいに装っていても内には醜いものを隠し持っているという、内と外が矛盾した偽善者ぶりを象徴している。しかし本来彼らの内側にあるものは「汚れ」ではなく、律法に代表される尊い神の言葉だ。それを内側に持つなら、自ずから「外側もきれいになる」はずなのに、彼らは「28:外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」という事態に陥っている。

◇先週26日に墓前礼拝で、お二人のお骨を地下の納骨室に納めた。懐かしい164名の方たちの信仰を覚えるこの場所は、決して汚れたところではない。主イエスが十字架と復活によって天国への門となって下さったことを確信する希望の場所だ。

◇2004年に召された池田鹿雄さんが書いた冊子『信仰の外側』より。「信仰を直接見ることはできませんが、生きた信仰には美しい行いが伴い、作法となって現れます」。それを周囲の人に見せることによって伝道が行われるとも言われる。ただし私たちは「信仰の外側」を論じる前に、「内側」に尊い宝があることを確認したい。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(2コリント4:7)。私たちの中心に信仰の宝を持つなら、必ずや外側の生活に「美しい行い」や「作法」がにじみ出るに違いない。

◇中身の伴わない外側だけを取り繕い、装うことばかりに躍起になっている私たちに、「立ち帰れ、立ち帰れ」、「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル書33:11・礼拝招詞)と、私たちをいのちの道へと招いて下さる神を仰ごう。

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