2008/11/9 降誕前第七主日
「目を上げて」牧師 大村 栄
創世記13:1−18
◇アブラム(後にアブラハムと改名)は「生まれ故郷父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と命じられ、「行き先も知らずに」(ヘブライ11:8)旅たった。飢饉を避けてエジプトに寄留した時には、妻のサライを妹と偽って我が身の安全をはかるという罪を犯したが、主に赦されて再びカナンへ戻った。その際、彼は真っ先にベテルに向かう。「4:そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所」である。もう一度、神にすがって出発した原点から始め直そうとしたのだろう。
◇人生の出発点は、神の意志によって始められた誕生という点だ。神の支配の中に命の原点があったことを覚え、そこに立ち返る思いを大事にしたい。
◇原点に立ち返ったアブラムはそこで甥のロトと分かれる。家族は発展的に散っていくもの。「9:あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」。無欲と言うより、エジプトでの苦い体験から、他者を押しのける強引さがなくなっている。ロトは当然「10:エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」ヨルダン川流域の低地を選んだ。ただしそこには滅びの町ソドムとゴモラが含まれる。
◇ロトが去っていき、残されたアブラムを神が訪れる。「14:さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。目を上げよと言われたということは、彼がそれまでうつむき、うなだれていたのだろう。神はそういう者に寄り添い、「目を上げよ」と言われる。目を上げても目の前に広がるのは荒涼たる大地だけだが、主はそれを越えて「上を見よ」、すなわち「神を見よ」と命じている。
◇「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121:1)。荒涼たる現実の彼方に、人生と世界の出発点である神に目を上げたとき、アブラムには「15:見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」との祝福が与えられた。このように神に目を上げることを信仰と呼ぶ。
◇私たちも自分たちのベテル、「主の御名を呼んだ場所」に立ち帰り、主に目を上げることを繰り返したい。それを礼拝において体験するのが、教会の信仰生活なのである。
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