2008/11/30 待降節第1主日礼拝
「今はどんな時であるか」牧師 大村 栄
ローマ書13:8-14
◇13章1-7節の小見出しは「支配者への従順」。パウロは国家とその権威を、いわば神が与え、神が定めたもうた秩序の一部であると言う。しかし常に恵みであり続ける訳ではなく、時には堕落することがある。パウロの時代にはローマ帝国も堕落した。「神によって立てられた」権威を執行する国家が、そのつとめを忘れ、堕落していく時に、教会はこれに「待った」をかける見張り役としての義務がある。
◇「まことに私共の祖国が罪を犯しました時、私共の教会もまたその罪に陥りました。私共は『見張り』の使命をないがしろにいたしました」(「日本基督教団戦争責任告白」1967年3月)。
◇「7:すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」。私たちキリスト者は、社会と世界に対する教会の「義務」を果たすことによって、神の恵みの秩序を、それに相応しいものとして生かし、整えたい。
◇「義務」は努力すれば果たし得る。負債の義務は当然返済するべきだ。しかし私たちがどうしても返済できないものがある。「8:互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」。愛の負債だけは返しつくすことができない。その究極は神の愛。ただし返す方法は示されている。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(?ヨハネ4:11)。パウロも「隣人愛」がその方法であると言う。
◇主イエスは律法を「神を敬い、隣人を愛する」の二つに集約された。パウロはもっと大胆に、「10:愛は律法を全うするものです」と、「隣人愛」一つに集中させる。律法は神の秩序の基礎である。世界はその秩序の中にあり、国家さえも神の恵みの秩序の一部分である。ならば私たちは、社会生活の信仰的規範として、律法を遵守しなければならない。ただしその基礎は愛。「愛は律法を全うするものです」。ここに教会の<立ち位置>を見いだすのである。
◇「11:あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」。再臨のゴールに向かう直線の中で「今」を生きる教会は、「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」(教団信仰告白)のである。「12:夜は更け、日は近づいた」。朝は近いことを告げる「見張り」ならばこそ、周囲は闇に満ちていても、愛と信仰をもって「13:日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」。
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