礼拝説教


2008/12/7 待降節第2主日礼拝

       「イエスにつまずいた人々」

牧師 大村 栄

マタイ福音書1:18〜25


◇アドベントは再臨を待望する季節。再臨待望を強調するあまり、極端な信仰に走る場合もある。内村鑑三(1861-1930年)も晩年は「再臨運動」を掲げたが、その背景には愛娘の死や第一次世界大戦への失望があった。異端的な自己実現願望とは異なり、再臨にしか希望はないというつよい確信であった。

◇主イエスは故郷ナザレで拒絶された。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ…ではないか」(55-56節)。ナザレの人たちは、自分たちの地域性や伝統の中でしかイエスを見れなかった。主を自分の知識や理想の中に引き入れようとする過ちを、私たちも犯してはいないか。信じられることだけを信じようとする、自己中心の自己完結型の信仰が私たちにもあるのは否めない。

◇「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58)。奇跡を行えば信じたかも知れない。しかしそれを見て信じるのは真の信仰ではない。奇跡は信仰を促すための手段として行われるのではない。信じて委ねる人に行われるのだ。

◇空虚になって委ねる人を空洞のパイプとすれば、自分の信念に満ち、自己完結型の信仰生活を営む人は詰まったパイプだ。先週は教区の按手礼式で、姜キョンミ先生ほか4名の教師たちが正教師に任じられた。先に按手を受けた正教師である牧師たちが全員で受按者たちを囲み、その頭に手を置いて「聖霊を受けよ」との宣言にアーメンと言う。最初に主イエスが人々に手を置き、それを引き継いだ使徒たちが人々に手を置いて祝福した、その使徒的伝承の中で行われる儀式だ。授ける者も受ける者も、共に神と教会の歴史における空洞のパイプである。

◇私たちは再び来たりたもうキリストをお迎えするに当たって、ナザレの人々のように自分の知識や判断によって固定的な受け止め方をするのでなく、空洞の空しいパイプとなって、素直にお迎えしたい。

◇再臨の主イエスは全く未知だ。しかしその未知の領域にこそ最後の、最上の望みを抱くことが再臨への希望というものだ。内村鑑三も絶望(空虚)のどん底で、そこに唯一の希望を見いだしたのだ。

◇すべては私たちのものだと言われている。しかしそれは「あなたがたはキリストのもの」(1コリ3:23)という全面的な献身と信頼があって実現する祝福である。空虚になって主を迎える備えをしたい。

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