礼拝説教


2008/12/14 待降節第3主日礼拝

       「笛吹けど踊らず」

牧師 大村 栄

マタイ福音書11:2〜19


◇バプテスマのヨハネだけでなく、当時のイスラエルの人々は皆メシアの到来を待ち望んでいた。しかしこの方がそうかも知れないと言われるイエスは、一向にローマの権力と戦おうとはしない。そこでヨハネはイエスが本当にメシアなのか疑いを抱き、獄から指示して弟子たちをイエスに遣わし、「3:来るべき方は、あなたでしょうか、それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問い合わせた。

◇すると主はこの問いに答えず、「4:行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と、彼らに事実の証言を託して送り返す。その事実とは、「5:目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…」という事実。これはイザヤ書35章の成就である。不思議な奇跡を言うのではなく、一人一人の人間が新しい人生を歩み出しているという喜びの事実だ。

◇信仰とは何か、教会とは何か、キリストとは何者か。その問いに対する答えは言葉で与えられない。その問いを発した者は、目の前に数々の事実を示され、その中にあなたは神の御業を見出すかと、逆に問いかけられる。そこにひとり子を賜うほどに世を愛された神の愛の出来事を見ると告白することこそが、信仰の告白にほかならない。

◇主イエスはヨハネを「9:預言者以上の者」と高く評価するが、続けて「11b:天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とも言われる。天国で評価される者は、彼とは逆に、疑わずに素直に神の言葉の成就であるキリストを受け入れる人である。

◇受胎告知されたマリアの態度にそれを見る。「そのようなことがありえましょうか」と疑った彼女だが、「神にできないことは何一つない」との天使の言葉に動かされ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:34-38)と受け入れた。そういう素直な信仰が、未来への可能性を開く希望であり、天国の評価で尊いとされる。

◇ヨハネと主イエスの宣教の第一声は、等しく「悔い改めよ。天の国は近づいた」。すぐ手の届くところに来ているが、「16:今の時代」はその事実を受けとめようとしない。「笛吹けど踊らず」の「拒絶の時代」であると主は批判する。私たちは「天国は近づいた」という真実への確信と、それを実証する事実が周囲に満ちていることに気付く者でありたい。疑ったヨハネと、受け入れたマリアとを覚えつつ。

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