礼拝説教


2008/12/21 降誕祭礼拝

       「神われらと共にいます」

牧師 大村 栄

マタイ福音書1:18−25


◇ヨセフはナザレの無名の大工だが、由緒正しい家柄の出だった。1章前半の「1:アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」を見れば分かる。ダビデ王の子孫である彼に、主の天使が命じる、生れてくる「21:その子をイエスと名付けなさい」と。それは法的に我が子と認知することであり、それによって、「救い主はダビデの子孫から生れる」という預言者たちの言葉が成就することになる。

◇ただしその子はヨセフの子ではない。「18:聖霊によって身ごもった」のだ。神の救いの実現が彼の重い決断にかかっている。彼は「19:正しい人」であればこそ悩み苦しんだが、結局神の言葉に従う決意をし、「24:主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」た。それによって「22:主が預言者を通して言われていたことが実現する」に至ったのである。

◇クリスマスは「神の言葉が実現した時」だ。しかし神はみ言葉の成就を超越的な方法ではなさらず、神の呼びかけに応える人々を用いて実現される。私たちも「お言葉どおりこの身に成りますように」と信頼して、私たちの生涯を神のみ業の現れる器として捧げ、最後には羊飼いたちのように、お言葉どおりだったと賛美しながら人生の旅路を終えたい。

◇「23:『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は『神は我々と共におられる』という意味である」。「我々」とは、救世主メシヤの到来をと待ちわびたイスラエルの民だ。これは人間がいつまで待ち続けることができるかを試す、神の実験だったのかも知れない。しかしイスラエルはこの実験に耐えられなかった。本質より形式を重んじる律法主義におちいり、イエスの無力に失望して、十字架にかけてしまった。

◇しかし神はその後、「新しいイスラエル」を創造された。それは教会とそこに召された私たちである。「すでに」始まっている神の救済計画、それは「いまだ」実現はしていないけれど、必ず実現する。クリスマスに来られた独り子イエス・キリスト、イスラエルはこれを拒絶したが、私たちはこれを神の愛と救いのしるしと見る。どんなに暗く見える世界でも必ず希望はある、信じて待つことは決して空しくない、そのことを教会は宣べ伝えていく。それが教会の使命だ。そしてこの「待ち望む群れ」に、「神われらと共にいます」の預言は実現する。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com