2009/1/18 降誕節第4主日
「杯は苦くとも」牧師 大村 栄
ヨハネ黙示録10:1−11
◇黙示録は紀元95年頃、ローマ皇帝ドミティアヌスによるキリスト教迫害の時代に書かれた。著者ヨハネは、信仰の理由で流刑されていたエーゲ海の孤島パトモス(1:9)から、小アジアの諸教会の信徒たちを激励した。ローマの官憲の目を避けるために、暗号のような言葉で抽象的・象徴的ではあるが、はっきりとローマ帝国の崩壊を預言し、新天新地の到来、すなわちキリスト再臨を予告した。そのようにして本書は、これを読む当時のキリスト者たちに大きな励ましと希望を与えた。
◇今日与えられた10章は、天使が神の言葉を記した巻物をヨハネに渡す場面。孤島に島流しされ、世界の片隅に小さく弱く生きている者に、全地をすべ治めたもう神の言葉が託される。私たちは「土の器」に過ぎないが、その器に偉大な「宝」である神の言葉を納めている(Ⅱコリント4:7)。
◇ヨハネに託された神の言葉は、「10:口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」。普通は「良薬口に苦し」だが神の言葉は苦くない。甘いものであり、喜びだ。しかしそれは自分の喜びで終わるものではない。「良きサマリア人のたとえ」(ルカ福音書10:25-)で使われる「憐れに思う」という言葉は内臓が痛むことを言う。黙示録の「腹に苦い」の言葉も、他者への同情や悲しみと関係あるのではないか。
◇口に甘く、腹に苦い神の言葉の巻物を「受け取って、食べてしまえ」と命じられたヨハネに、さらに天使は告げる。「11:あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」。世界の民はあえいでいる。希望となり、支えとなる言葉を、世界は必要としている。「枯れた骨の谷」(エゼキエル書37:3-5)のようになっている世界が必要としているのは、神の力なる聖霊の息吹であり、真の愛と憐れみを示す神の言葉である。
◇6節に「もはや時がない」とある。世界の人々を慰めうるおす蜜のごとく甘き言葉、しかし隣人と世界の痛みを共に担う者へと私たちを育てる神の言葉。それを受け取って生きるための時間に余裕はない。最も苦い思いをして共に苦しみ、世界への憐れみのしるしとしてひとり子を差し出して下さった神の愛の言葉に、いま聞いて生きる者でありたい。
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