2009/2/15 降誕節第8主日礼拝
「愛はいじけない」牧師 大村 栄
マタイ福音書15:21−31
◇カナンの女(異邦人)が主イエスに、娘から悪霊を追い出してくださいと懇願した時、主は「24:わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と拒絶して言われた。ご自分は異邦人のためではなく、選民イスラエルのために来たのだという意味だ。イエスは平等に愛を配分する博愛主義者ではない。主イエスは愛する人を選んだ。◇思えば私たちも救援物資を配分するなら平等に配るだろうが、人を愛する時は、この人だけを愛そうと選別する。これは「えこひいき」と言えようが、それが本当に自分を犠牲にしてまで、ある人に集中する愛であったなら、自分がその愛の対象ではなくても、人はその愛に心打たれるだろう。
◇神はアブラハム以来イスラエルの民に集中し、やがてこの民を通して、全世界に福音を伝えようと計画された。主イエスはそのために、この民の悔い改めを実現することをご自分の使命と自覚しておられた。だから「26:子供たち(イスラエル)のパンを取って小犬(異邦人)にやってはいけない」と、異邦人に関わっているゆとりはないと告げられた。
◇すると驚いたことに、カナンの女はその主イエスの言葉を理解して、「27:主よ、ごもっともです」と応えた。彼女はイエスのえこひいきを理解し、そこに冷たさではなく、むしろ愛の深さ、愛の集中を感じとったのだ。自分の命を儀牲にしてまで一つの民に愛を集中的に注ごうとしている主イエスの姿に、たとえそれが自分に向けられていなくても、彼女は感動し、主イエスの言葉を受け入れたのである。
◇十字架の愛に対する応答としての「洗礼」を決意した者にのみ「聖餐」の恵みが実現する。それを受け入れない者(未受洗者)も排除すべきでないと、聖餐を分かつことは、十字架の愛への冒涜である。
◇本物の愛を知った人は、自分がそこから除外されていても「いじけない」。カナンの女も「27:主よ、ごもっともです」と言えた。しかも「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」となおも主の愛にすがっていくことができた。結果「28:娘の病気はいやされた」が、たとえそうでなくともキリストの愛に触れる体験を通して、彼女は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13:7「愛の賛歌」)者へと変えられていっただろう。私たちもまた。
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