礼拝説教


2009/2/22 降誕節第9主日礼拝 

       「十字架を担う者とされて」

協力牧師 中野  実

マルコ福音書10:46−52


                    ◇今朝与えられた御言葉は、十字架への道を進む主イエスとバルティマイの出会いの物語である。その出会いを通して、道端で物乞いをしていたバルティマイは十字架への道を主イエスと共に進む人間に造り変えられる。
◇主イエスの一行がエリコを出て行こうとした時、道端のバルティマイは突然叫び始める。主の評判を知っていたのだろう。「目が見えるようになりたい」という必死な願いは、主イエスを立ち止まらせるに十分であった。主が彼を呼ぶと、彼は躍り上がって主のもとに来る。「何をしてほしいのか」という主の質問に、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答える。ただ主イエスの評判を耳にして、わらをもつかむ思いで、叫び続けたにすぎなかったバルティマイであった。しかし主の前に進み出て願いを語るうちに、主に対する信頼が形成された。すると、主は驚くべき言葉をバルティマイに語る。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
◇ここで少し立ち止まって考えたい。我々に与えられている信仰とは一体何か?信仰とは、我々が自分の中に見いだすものではなく、主イエスご自身が我々の中に見出してくださるものである。バルティマイの「見えるようになりたい」という願いも、たとえ切実であったにせよ、自己中心的な、人間の思いに基づく願いであった。しかし主イエスは彼に目をとめ、願いを聞き、それを神の御心にふさわしく造りかえてくださった。そこにバルティマイの新しい人生の歩みが始まった。バルティマイは「すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。道端にしゃがみ込んでいたバルティマイは、見えるようになり、主イエスと共に十字架への道を歩み始める者に造りかえられた。主の十字架の証人になるためである。目が開かれるという賜物を与えられた時、十字架への道を主イエスと共に歩みながら、自分に与えられた十字架を担いつつ、人生を歩む新しい人間へと造りかえられた。我々もまたバルティマイのような存在である。我々も、自分に与えられた十字架を誠実に担いつつ、主の十字架の証人とされている恵みを心に刻む受難節でありたい。


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