2009/3/1 受難節第1主日礼拝
「祝福と呪い、究極の選択」牧師 大村 栄
申命記30:11−20
◇申命記は間もなく世を去ろうとするモーセが、ヨルダン川を越えて約束の地に入ろうとするイスラエルの民に語った。「11:わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…14:御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから」。
◇「御言葉」とは単なる言語ではない。「見よ、わたしは戸口に立って叩いている」(黙示録3:20)と語るキリストに集約される神の招きである。これを心に受け入れることが求められている。「12:だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが…」などという言い訳は通用しない。
◇神の能力の限界を勝手に設定してはならない。「神の恵みはいと高し」(讃美歌492)。ここまでは無理だろうと思う時も、主は私たちのそば近くにいて、私たちの決断と応答を待っておられる。「15:見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」。み言葉に聞き従って祝福の道を行くか、あるいはそうせずに滅びの道を行くか、そのような「究極の選択」を私たちは迫られる。
◇人生と社会には信頼による決断を妨げ、神の力を疑わせる誘惑が多い。そんな私たちのただ中に神はひとり子を下さり、この方に私たちと同様の苦悩を経験させた。主は十字架上で「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と神を疑うほどの苦難に遭われた。だが最期は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と神への信頼に生ききった。それによって復活の勝利に入れられたイエス・キリストが、神の右にいて私たちのために取りなして下さる。この方が共にいて下さるから、私たちは究極の選択に立ち向かっていけるのである。
◇「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:8-9)。今日からレント、ご受難の主に支えられつつ、「究極の選択」の中で神への信頼と服従を選び取る信仰を養われたい
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