2009/3/8 受難節第2主日礼拝
「時は夜であった」船本 弘毅 先生
ヨハネ福音書13:21−30
◇最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちに「21:あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われると、ユダが去っていった。彼は銀貨30枚で祭司長たちにイエスを引き渡すための「良い機会をねらっていた」(マタイ26:16)。「銀30シェケル」は一人の奴隷の身代金(出21:32など)で7000円くらいだ。その程度の額で奴隷のごとく売られる主イエス。「30:夜であった」。口語訳では「時は夜であった」。まさに闇の出来事だった。
◇私たちは未曾有の不況の中にいる。夜の闇がますます深まる状況の中で2009年のレントを迎えている。「キリスト、光なる主よ!輝きたまえ、われを導きたまえ!…キリストわが主よ、わが内側に外側に、いましたまえ!」(聖パトリックの祈り)。自分の回りを全部キリストが取り囲んで守られなければ過ごし得ない人間の弱さ、罪を思い、私のすべてを支えて下さいと祈る。明日を分からぬ不確かさの中に生きる私たちを支えるものは、揺らぐことのない主の真実なる愛に触れることだ。
◇共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は最後の晩餐で聖餐の制定の言葉(「これはわたしの体、わたしの血」)を告げるが、ヨハネだけはそれを書かず、代わりに「洗足」の出来事を記している。どうやって聖餐が始まったかより、「洗足」に示される聖餐の意味について語る必要があった。主は弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」(13:1、文語訳は「極みまで愛し抜かれた」)。イエスを売り渡そうとしたユダも、イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちも、主はそのすべてを極みまで愛したのだ。
◇「21:あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と聞いて、弟子たちは途端に「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた(マタイ26:22)。他の弟子たちもユダと同じことをする可能性を自分の中に感じていた。皆がユダの罪を負っている。外へ出て行ったユダだけでなく、他の弟子たちも同じ暗闇の中にいた。
◇しかしその闇の中にイエスは来られた。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。そして「闇は光に勝たなかった」(口語訳)。闇の極みまで愛して下さる主がおられる。暗闇の中にあっても、十字架から復活の朝へと向かうレントなのである。
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