礼拝説教


2009/3/15 受難節第3主日礼拝 

       「キリスト者と呼ばれる」

牧師 大村  栄

IIペトロ4:12−19


◇「13:キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」。私たちがキリスト者として生きる時に体験する苦悩は、キリストの苦しみに参与することであり、それによって「13:キリストの栄光」に包まれるのだから、むしろ「喜びなさい」。

◇「17:今こそ、神の家から裁きが始まる時です」。キリスト者への迫害が各所の「神の家(=教会)」で始まっていた。この苦難は世の終わりの近づいたしるしであり、「13:キリストの栄光」が現れる前触れであると彼らは考えた。そして「17:わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」。この苦難に自分たちキリスト者が忍耐することが、その他社会の多くの人々の行く末にも影響を及ぼすと、彼らは信じたのだ。

◇「18:『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』(箴言11:31の引用)と言われているとおりです」。わずか10人の「正しい者」がいなかったためにソドムの町は廃墟となった(創世記18章)。「正しい人」キリスト者の存在は、たとえ少数であっても全体を支え、救いに導く使命がある。

◇だから苦難を受ける時、「16:決して恥じてはなりません。むしろキリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。そのような世界の救いに関わる苦難を体験したり、そのために教会の重荷を負うことは、むしろ誇りと責任をもって受けとめるべきだ。「12:キリストの苦しみ」なのだから。

◇キリストは十字架で最期に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれた。「19:だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」。「善い行い」とは、倫理道徳的に善いことではなく、十字架の主に従うこと。私たちがキリスト者として体験する苦難も重荷も、伝道の虚しさも、祈りの通じなさも、真実なる神が必ず最後は最善に導いて下さることを信じてゆだねよう。主イエスが十字架でなさったように。

◇讃美歌21-504「この世を主に捧げまつり、神の国となすためには、責めも恥も死も滅びも、何かはあらん、主に任せて」。



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