2009/3/29 受難節第5主日礼拝
「苦い杯」
牧師 大村 栄
マタイ20:20−28
◇主イエスが三度目の十字架と復活の預言をされた直後に、ヤコブとヨハネの母が「21:王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願い出た。主は二人に「22:わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問い二人は「できます」と答えた。彼らは十字架の先には復活と天国があると楽観していた。だから死をも恐れない宣言をしたのだろう。
◇「23:確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」が、どんな杯を飲むことになるのかは「22:分かっていない」。ヤコブは教会において重要な活動していたため、12使徒の中で最初に殉教する(使徒言行録12:1)。ヨハネ(主の「愛する弟子」)は、十字架上の主イエスから母マリアの世話を彼に託された(ヨハネ19:26)。一説では98年頃までエフェソ教会の監督だったと言われる。かなりの長寿を全うしたことになる。
◇キリスト者が飲む「苦い杯」、ある者はヤコブのように、偉大な瞬間にそれを飲み干すだろうし、またある者はヨハネのように長い年月を通してそれをゆっくりと飲み続ける。あるいは両方を体験するかも知れない。いずれにせよこれは、「23:あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と、主イエスが「わたしの杯」言われた杯だ。主より託された人生の使命を、主が共に負って下さる平安を得て、生きていきたい。
◇「26:偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27:いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。私たちキリスト者に主から託された人生は権力や財力を獲得していく人生ではなく、自分を捧げていく人生、仕える人生である。獲得することを願うのは、その根底に深い欠如感、虚無感があるからだ。その虚無感は人間を暗い闇の中に引きずり込もうとする。主は私たちをその悪魔的勢力から救い出すために、「28:身代金として自分の命を献げるために来た」と言われる。
◇「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られた主が、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と受け入れた「杯」を、私たちも飲むことが出来ますように。
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