2009/4/5 棕櫚の主日礼拝
「主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう」
牧師 大村 栄
詩編27:1−6
◇詩編はイスラエルにおける「祈祷書」である。聖書のほとんどの部分は「私たちに向かって」語りかけるが、詩編だけは「私たちと共に」語る。この世界的大不況の時代、多くの不安や恐れの中にある人々と共に、この「信頼の詩編」を歌いたい。
◇ヨハネ福音書は神の子イエスを、「言(ロゴス)」に続いて「光」と表現する。「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)。キリストを受け入れずに拒絶する「世」を、神はそれでもこれを愛し、永遠の救いを提供される。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。夜明けの光のごとく闇の中に救いが到来する。「主はわたしの光、わたしの救い」とはそういう希望の言葉である。
◇この光を知るなら、「わたしは誰を恐れよう」。オットーは『聖なるもの』の要素として、「戦慄すべき秘義」、「被造物感情」、「魅するもの」などを挙げる。戦慄し、身震いする程の身の毛もよだつすさまじさ。しかし同時に「魅するもの」であり、これによって自分は存在するという「被造物感」に包まれる。「人生において恐れは最も無益でありながら、万人に避けがたい感情である」(ヒルティ)ならば、その無益な恐れを無益なものによって支配されず、「聖なるもの」への恐れで満たしたいものだ。
◇「4:ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」。竹森満佐一先生の言葉。「これはロマンティックな詠嘆ではありません。…人生の苦闘の中の勝利の確信であります。…生命あるかぎり、主なる神のうるわしさをさがし求め、知りつくそうとし、言葉をつくして、讃美の礼拝をつづけて行きたいと言うのであります。数え切れないほど持っている願いの中で、このひとつだけといって求めつづけていることが、これなのであります。礼拝の力と喜びは、実に、ここにあるのであります」(「礼拝−その意味と守り方」)。
◇これからの一年、毎週の礼拝において「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」と告白しつつ、信頼の旅路を共にたどってまいりたい。それが世界の希望につながるとも信じて。
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