礼拝説教


2009/6/21 聖霊降臨節第四主日礼拝 

       「主の祈り、我が祈り」

牧師 大村  栄

マタイ福音書6:1〜15


◇前半は「施しをするときには」の勧め。「1:見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」。「4:隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のだから。それと同様に「5:祈るとき」も、人前で立派に祈るより、人目を避けて、「6:奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。これが祈りの原点である。「祈り」も「施し」(献金)も人に評価されるためにしてはならない。それは神との一対一の関係に関わる行為なのだ。

◇また祈る時は「7:異邦人のようにくどくどと述べてはならない」。「異邦人」はここでは真の神を知らぬ人のこと。神を知らなくても人は誰もが超越的な力を予感し、それに向かって祈願する。祈りが通じないと、要求の仕方が不充分だったのかと思い、もっと時間と金を掛けて祈りの効果を高めようとする。しかし聖書が教えるのは、「8:あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。では何を祈るのか。

◇その答えが、「9:だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。10:御国が来ますように。御心が行われますように』」。神が崇められることを第一とし、神の支配に生きることを求め、自己の意志を神の意志に従わせようとする。それが主の祈りの前半の教えである。後半は日毎の糧、罪の赦し、悪(誘惑)からの救済を祈れと言う。いずれも自己中心の願いではなく、神との関係が他者と共に生きる生き方へと私たちを送り出す。

◇最後に「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」。これは初代教会によって追加された「頌栄」である。これによってこの祈祷は公の礼拝に拡大した。密室の祈りを真に祈るとき、それは密室の祈りに終わらず、公同の祈り、教会の共同の祈りへと広がっていくのだ。主の祈りは教会の歴史が練り上げ、歴史を支えてきた教会の祈り、世界の祈りである。「主の祈り、我が祈り」(説教題)ではなく、「主の祈り、我らが祈り」として、心を合わせ、声を合わせて共に祈ろう。

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