礼拝説教


2009/7/5 聖霊降臨節第六主日礼拝 

       「決してあなたを忘れない」

牧師 大村  栄

イザヤ書49:14〜21


◇バビロン捕囚末期に書かれた第二イザヤ(イザヤ書40-55章)は、ペルシャ王キュロスによる解放(BC539年)の前とあとで前半と後半(40-48,49-55)に分かれる。解放を目前にした前半には期待に満ちた言葉が多い。キュロス王を「主が油をそそがれた人」(45:1)と呼び、「主の僕」と期待している。しかし彼は最後まで神を受け入れることはなく、イスラエルの民に失望を与えた。

◇「14:主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そうとしか思えないような状況をかつて何度も体験してきた。しかし「15:女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。…たとえ女たちが忘れようとも、わたし(神)があなたを忘れることは決してない」と主は言われる。

◇そして「16:見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」。口語訳では「たなごごろにあなたを彫り込んだ」。血を流して刻みつけほどの痛みをもって、神は私たちを覚えて下さる。かつてキュロスに頼った捕囚民のごとく、私たちも神の愛を忘れがちになる。しかし神は忘れない。手のひらに血を流すほどの激しい痛みをもって、私たちを覚えていて下さる。

◇解放を実現して下さったのはキュロスではなく神ご自身だった。再建が始まりバビロンに連れ去られた人々が帰ってくる。「21:子を失い、もはや子を産めない身」となったと思い込んでいた母親(シオン)に、その失ったはずの子供たちが戻され、彼女は「20:場所が狭すぎます、住む所を与えてください」と叫ぶほどの大勢の子らに囲まれる。

◇第二イザヤの「主の僕の歌」は四つある。最後の52:13-53:12の「主の僕の苦難と死」は、もはやキュロスのことを歌っているとは到底思えない。「5:彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。この「主の僕」はメシアを預言し、イエス・キリストを預言している。神はひとり子を十字架につけるほどの痛みを自らに与えてまで、私たちを忘れないという課題を自らに課したもうた。ここに私たちの救いがある。

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