2009/8/30 聖霊降臨節第14主日礼拝
「ひそやかな幸せ」
伝道師 五十嵐 成見
マタイ福音書13:31〜35
◇からし種をまく手、パン種を握る手から神の国は広がる。神は私達の手を用いられる。赤ん坊の体を抱きしめる手、介護者を立ち上げる手、老いし者と共に歩む手。神の国は、私達の手を用いてこの世界に広がっていく。
◇ 神の国は「天地創造の時から隠されている」(35節)。私達はもっと明らかな目に見える形、神の栄光の大きさを持って、神の国を示してくださればいいのにと思う。しかし、神はそのようなやり方を望まれない。なぜなら神は、人間が大きさを誇った時に、小さな存在をぞんざいに扱う罪深さをよく知っておられるから。だから神は既に大きくなった木や、既に膨らんだパンからは始めない。むしろからし種のような、目立たない、日常に溶け込んでいるようなところから、神の国を始める。たとえ種が育ち大きな木になっても、その大きさは種の小ささに支えられている大きさだ。その真実を忘れたとき、私達は傲慢に陥る。
◇C.ヴェスターマン(1909-2002,ドイツ旧約学者)が歩兵に出され、弾丸飛び交う戦場で小さな花を見出した時「この小さな花々は、この戦争よりも偉大なのだ」と気付かされる。人間の傲慢さの極地にある戦争の中にあって、神の国はなんとひそやかなることか。この真実によってヴェスターマンはその戦争の悪の現実に屈せずに捕虜収容所を生き抜くことが出来た。悪の支配の中にあっても神の国のひそやかさは決して私達を裏切らない。
◇小さなからし種、一握りのパン種、野に咲く逞しくも弱き花々、それは、主イエス・キリストの十字架の象徴だ。主イエス・キリストは十字架につけられたとき、私達のからし種となってくださった。最もよわき姿になられ、いのちをこの地上に投げ出された事によって私達の心のうちに永遠に生きるようになってくださった。からし種は私達のいのちのことだ。このからし種から、神の国の実りは始まる。わたしたちのいのちそのものが、神の御国のからし種として今生かされている。
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