礼拝説教


2009/9/13 聖霊降臨節第15主日礼拝 

       「教会の責任」

牧師 大村  栄

マタイ福音書18:10〜20 


◇ 「迷い出た羊のたとえ」で、羊飼いが九十九匹を残しておいて一匹を探しに行ったのは、百匹の羊全部を等しく愛することだった。99の多数派も1の少数派も、そのことによって価値が生じるのではない。弱者も強者も関係なく、神の前にすべては等しく「一匹の羊」として尊ばれる。

◇一匹を捜しに行く羊飼いが残りの九十九匹を残しておいた場所が、ルカ福音書では「野原に残して」(15:4)とあり、マタイでは「山に残して」とある。マタイで山と言えば5 -8章の「山上の説教」や17章の「山上の変貌」に見られるように、弟子たちが神の言葉を学ぶ場所。あるいは主イエスが神の子であることが明らかに示される場所。これは「教会」を暗示する。

◇キリスト者が生きる上で、この世はつまずきに満ちている。「7:世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない」。しかし羊飼いなる主はそういう私たちを一人一人訪ねて下さり、神の愛が語られ、実践への決意が促される場である教会へと導いてくださる。そういう主の委託を覚えて、私たちはその手足となって働こう。

◇15以下にはそういう教会の伝道活動に関する注意事項が記されている。始めは丁寧な対応が語られるが、最後には「17:教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と厳しい裁きの言葉になっている。しかしこれは、その後に記された、教会に託された権威の重さと取るべきであろう。

◇「18:あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。「つなぐ、解く」は家畜を綱につなぐ、解く行為。ここで言う解放は、人間の魂を罪の束縛から解放する(=赦す)こと。教会では葬りの最後に、火葬前式においてⅠテサロニケ5:23を読む。「どうか、平和の神御自身が、あなた(がた)を全く聖なる者としてくださいますように。…」。教会が罪の赦しを宣言しないならば、死者は天においても解放を得ない。小さな羊を捜し求めるキリストの愛の中で、教会はどんなつまづきを体験した人でも、弱者でも強者でも、その罪を赦し、天国への道を示しうる。最終的にはそのような重い責任が教会に託されているのだ。

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