2009/10/4 世界聖餐日・世界宣教の日
「何事にも時がある」
牧師 大村 栄
コヘレトの言葉3:1〜17
◇「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(3:1)。“生まれる時、死ぬ時”以下1〜8節に「時」が30回使われている。個人生活においても共同体や民族レベルでも様々な「時」があり、それはすべて定められている。だとすれば私たちは、その運命的な「時」が来るのをただ受動的に待つのみなのか。
◇待っていれば、自然に良い時が来るのではない。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:4)。「時」はたとえそれがどんな遠く、長くかかりそうに見えても、すべて神の支配の中にある。「神はすべてを時宜にかなうように造」られた(口語訳では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」)、神の恵みの計画の中にあるという信頼を聖書は語るのだ。
◇それに続いて「また、永遠を思う心を人に与えられる」。それは神の御業を感じとる「心」。それを与えられた私たちだからこそ、「神のなされることは美しい」と賛美することが出来る。しかし「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。私たちは神の御業を全て理解できるわけではない。「永遠を思う心を与えられ」たことによって、かえって人間自身の有限性、限界を知ることになったとも言える。
◇パスカルは言う、「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である」。惨めさの極みは「死」である。自らの命の限界に直面し、しばしば意気消沈する私たち。しかし私たちは、生きる時も死ぬ時も神の支配の中に置かれている。生死を超えて「神はすべてを時宜にかなうように造」られた。この信頼の中でこそ、いやその信頼によってのみ、私たちは自らの限界を知る人間ならではの惨めさから解放される。
◇“この暗闇はいつまでなのですか”と問い、救いの「時」の到来がいつなのかを問いたい私たちに、十字架の上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言われた主イエスが共におられ、神の「時」の支配に委ねる勇気を与える。すべてをみ手の内に置いて下さる神に委ねよう。
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