礼拝説教


2009/11/1 降誕前第8主日礼拝 

       「信仰による新しい生き方」

牧師 大村 栄 

マルコ福音書7:1〜23


◇「1:ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」は、イエスの弟子達が食事の時に手を洗わないと批判する。それは衛生上の問題ではなく、「3:昔の人の言い伝え」を無視することへの批判だった。人が神の恵みの内に生きるには、世の汚れから身を守らねばならない。そのために家に帰ったら入口で手足を洗う。食べ物に関してはレビ記11章などにあるモーセ以来の食物規定を厳格に守るべきだった。

◇「5:なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と問われて主イエスは「9:あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と言い、「神の掟」の中核である十戒の第五戒「10:父と母を敬え」がありながら、財産を神殿に捧げると言えば誰も手が出せなくなり、親を扶養する義務さえも免れるという、宗教の衣を着せた愚かな慣習を批判する(11-12節)。

◇主イエスは御言葉の正しい解釈を通して、神が望まれる本来の人間の在り方を語った。私たちは常にみことばに新鮮に聞くものでありたい。伝統的な言い伝えと、生ける神の言葉を見分けねばならない。み言葉に真剣に、新鮮に聞く教会でありたい。

◇そういう視点で後半のたとえを読む。「15:外から人の体に入るもので、人を汚すことができるものは何も」ない。これはモーセの食物規定に挑戦する新しい定義だ。世の中に汚れた物があるとしても、「19:それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」。それによって心まで汚されたりすることはない。一旦腹に入ってもやがて排泄される。むしろ「20:人から出て来るものこそ人を汚す」。外からの攻撃や誘惑に私たちが負けるのではない。自分自身の内側に汚れがあり、罪があるという自覚を持つべきなのだ。

◇私たちも神の恵み内に生きる者でありたい。それには新しくされねばならない。人は変われる。ただし自分に問題があると知ってこそだ。神がこの私の問題を、独り子の十字架において解決して下さった。それによってのみ、私たちの内側にある悪の問題は解決され、私たちが新しくされる道が開かれる。

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