礼拝説教


2009/11/29 待降節第1主日礼拝 

       「何故神は人となられたか」

深町正信先生(青山学院名誉院長) 

ルカ福音書1:26〜38


◇主イエス・キリストを待ち望む季節になった。「主があなたと共におられる」(28節)とは、明確の事実の主張である。この事実がマリアが「恵まれた方」である理由であり、天使たちが「おめでとう」と言う根拠である。しかし、マリアは、「戸惑う」。

◇30節から続くマリアに告げられた天使の話は、論理的に納得のいく説明になっていない。神の子の受胎は、人間の論理では説明し尽くせないことであり全き神の業、恵み、神秘的な出来事である。阿佐ヶ谷教会員でかつて静岡大学の教授だった三宅彰兄は私が高校生の時、キリストの受胎のことで友人にからかわれた時、「人間の論理にあわないことは少しもおかしくない、神の子に相応しい降誕の仕方ではないか、信じて飛び越えなさい」と言われた。

◇信仰とは神のご意志や計画に対する服従である。神の恵みの意外性に信頼して前に向かって生きていくことである。マリアは、「わたしは主のはしためです」(38節)と全き服従を持って応答した。彼女は受胎が婚約中の出来事ゆえに、ヨセフの疑いを受けなければならないし、律法の定めにおいては、石打ちの刑に処せられる危険もあった。しかしマリアはそれらの危険を引き受けてでも、神の御言葉への服従に生きた。「マリアは、私たちのキリスト者の一番先頭に立っている存在である」(バルト)。聖書はここにキリスト者のあるべき姿を描いている。

◇北森嘉蔵先生が「聖書のヘソ」と言ったヨハネ福音書3章16節は神の救いを表している。神が御子をくださったという神の恵みの意外性によって、人間は豊かな感受性を与えられ、自己中心になりがちな貧しい魂が豊かな土壌とされる。

◇父なる神が主イエスをお遣わしになったのは、神の深い愛・赦しを届けてくださったことであり、それがクリスマスの意義である。多くの宗教は人間が神に仕えることを要求するが、聖書は、神が人間のために一番大切な御子を与えるほどに、愛を持って仕えて下さることを伝える。人間が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。信仰によって私たちは無条件に救って頂ける。神の方から私たちに接近し、連帯し、共に歩いて下さるのだから。

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