2010/1/3 新年礼拝
「少年イエス−敬神愛人」
大村 栄 牧師
ルカ福音書2:41〜52
◇ 巡礼の帰りに息子を見失ったマリアとヨセフは、「46:三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。少年イエスは言われた。
「49:どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」。イエスがいた神殿は礼拝の場。私たちも毎週主の日ごとに「父の家」なる教会に帰り、信仰に立ち帰ることを今年も大切にしたい。
◇主は神殿に閉じこもったままでいた訳ではない。「51:それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。「礼拝者イエス」は同時に「家庭人イエス」であり「奉仕者イエス」でもあった。「貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめしこの人を見よ」(讃美歌121)。
◇直前の 2:22以下に幼な子イエスの宮参りの記事がある。両親は「22:幼な子を主に献げるため」に宮に行った。「23:初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」との定めによる。農作物の初物を捧げるのと同じルーツだろう。アブラハムがモリヤでイサクを捧げようとして以来、イスラエルに人身御供(ひとみごくう)はなくなったと言われるが、本来、子どもは神に属するものという信仰は残っていた。
◇人は皆、本来の属する場所である「父の家」から生まれ、死後に再びそこへ帰る。「49:わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と言われた方を信じる者もまた、主イエスの「父の家」を自分自身の「父の家」とし、「そこにいるのは当たり前」という本来の自分の居場所とする。詩編23:6「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」。「主の家」=「父の家」は私たちが日曜日ごとに帰る礼拝の場であると同時に、地上での生涯を終えて最期に帰り、そこで新しい生涯を始める場なのだ。
◇昨年9月の全体修養会の副題は「礼拝に生かされる私たち」だった。今年私たちは「主の家」での礼拝を第一としつつ、同時にそこから送り出されて奉仕する者として生きよう。そして「主の家」に用意されている永遠の住まいを望み見て歩もう。
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