2010/1/17 降誕節第4主日(ホームカミング礼拝)
「人生のわだちを刻め」
平野 克己 先生 (代田教会牧師)
詩編18:17〜20、ヘブライ人への手紙12:1〜13
◇「主は高い天から御手を遣わし」(詩編18:17)。神が私のことを引き上げてくださる。「敵は力がありわたしを憎む者は勝ち誇っている」(18)状況が変わるわけではない。しかし、神は必ず「広い所に導き出してくださる。」(20)信仰とは、信じて仰ぐと書く。自分の信仰はどれだけのものかと確認することではない。高い天に向かって顔を上げることだ。信仰を、自分の小さな部屋に閉じこもらせてはならない。神が広い所に導かれるのだから。
◇「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」(ヘブル12:12)。年を重ねると手が萎え、ひざが弱くなる。それは高齢者だけではない。若者もまた愛する手が萎え、冒険するひざが弱くなり、恐れ、挫折する。しかし、ヘブル書は、それをまっすぐにせよと語る。そしてそのために、「わだち」をつくれと語る。足が不自由な者が安心して歩けるようになるためだ。しかしわだちは自分でつくるのではない。多くの信仰の先達(11章)がつくってきたわだちに足を重ねればいい。彼らは「定められている競走」(12:1)を走り抜いてきた。
◇今度は私達の番だ。12章は「忍耐」という言葉が繰り返される。競走には忍耐が必要。キリスト者には定められた競走があり、それから逃げるわけにはいかない。だから大切なことは「主イエスを見つめ」(12:2)ながら走り続けることだ。主イエスはいつも私達の前を走られる。私達は、走りながら罪を犯し、また傷つけられるが、そんなことで主イエスの祝福はびくともしない。
◇ アメリカで研究生活をした時、ユダヤ教の礼拝に出た。礼拝の中で成人式が行われ、ラビは成人を迎えた少女に語った。「あなたの名前はサラ。」神の約束を疑いながらも神の祝福に生かされた名前だ。ユダヤ教の名前を持つことによってどれだけの悲しみがあったことか、しかしどれだけ神の祝福に生かされてきたことか。私達もまたこう告げられている。「あなたの名前はキリスト者。」神の約束を信じて旅を始めた者の名前だ。疑いを抱く私達のことを、神は笑わせ、喜ばせて下さる。
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