礼拝説教


2010/3/21 受難節第5主日礼拝

       「忍耐と練達と希望」

牧師 大村  栄

ローマ書5:1〜11


◇「1:わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いる。「義とされる」とは神との正しい関係に入ること。それは広く人間関係にも反映する。同じ親から生れた兄弟姉妹には、他人にはない絆がある。これを神との関係に置き換えれば、神は私の神であると同時に、他者の神でもある。主イエスは彼らのためにも死んで下さった。それを知る時に、他者との関係が新しくされる。

◇人類は「平和」の実現のために暴力を行うという倒錯を切り返している。アジアの平和と繁栄のためという目的で戦争が起こり、それによって多くの命が犠牲となり、最後はその戦争を終結するために大量破壊兵器の原爆が必要だったとされる。「神との平和」は、神が世界を力で制圧して実現したのではない。ご自分のひとり子に世界の罪を代償させることによって実現した平和である。他者にノーと言わず、神がご自身にノーを飲み込んで下さった、その壮絶な神の自己犠牲の上に実現した平和である。

◇争いと恐れに満ちてノーを連発していた世界が、神の肯定の中に本来の自分を取り戻し、キリストの十字架の贖いによって平和を知った。「2:キリストのお陰で」私たちはこの恵みの中に現在、そして未来も、永遠に立つことを許されているのである。

◇この神の赦しと愛の中に、現在の平安と未来の希望がある。だから「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と確信することが出来る。「練達」は金属が溶鉱炉の中で練り鍛えられ、不純なものが除かれて尊いものにされることを指す言葉だ。「練られた品性」とも訳される。苦難によって練り上げられ、磨かれて輝くキリスト者の品性だ。

◇「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(Ⅰペトロ1:6-7)。キリストの死と復活のしるし、神の愛の勝利のしるしである十字架を見上げ、品性を養われつつ生きよう。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com